高尾ノエルと私

 

 

 

 

 

「日本に行くんだ」

 

 窓から夕焼けが差し込む終業後のオフィスに、私とノエルだけがいた。ノエルは私が調整し終えたたばかりのXチェンジャーを受け取ると、思い出したみたいに話しかけた。


「そう」

「あれ、驚かないの?」

「あなた、自分で思ってるより有名人なのよ。みんな噂してるわ」


 ノエルが日本に行くらしいことは、職員たちの間ですっかり噂になっていた。彼は有名人だったから。今思えば、彼が本部を離れることは予想できたのかもしれない。日本でのギャングラーによるルパンコレクションの不正利用は、フランスまで轟いていた。ルパンコレクションを研究するものとしては心の痛む話だった。それを知ってか、ここのところ、ノエルは今までよりもさらにXチェンジャーの改良に執着し、私たちは日夜試作を重ねていた。


「へめには負担をかけることになるね」


 ノエルはXチェンジャーを大事そうに撫でながら、目を伏せて呟く。ノエルがフランスを発つまで、1ヶ月を切っていた。

 

 

 

 


 ノエルとの出会いは2年前、私が当時所属していた日本の理化学研究所からフランス国際警察本部へ引き抜かれてきたときだ。同じ日本人、同じ年齢、同じエンジニア同士ということで、私の案内役を任されたのがノエルだった。


「僕はノエル。高尾ノエル。気軽にノエルって呼んでもらって構わない。年齢は26歳、血液型はB型、好きな食べ物はエスカルゴ」


 彼は友好的で、親切で、聡明な人物だった。そんな彼に、私が惹かれたのは、まあ自然な形だったのだと思う。

 ノエルは女性を扱うのが上手だった。女性たちはみんなノエルを求めたし、ノエルもそれを拒まなかった。ノエルが関係を持つ女性は日本人だったりフランス人だったりイギリス人だったり、色々だったけど、誰もみんな幸せそうに見えた。あれほど上等な男だから、それも当たり前かもしれない。でもいつだってなぜか、ノエルはきちんと幸せになっているようには見えなかった。

 私もノエルを求めれば、彼はそれに応えてくれただろう。そうしたら、私きちんと幸せになれたはずだ。彼を置き去りにして。私は彼を幸せにする方法がわからなかった。そんなのはあまりにも悲しかった。私は彼を求めなかった。

 しかしながら、そのような感情を抜きにしても、彼は特別に優秀で魅力的な同期だった。私はルパンコレクションの物理法則そのものを研究するのが楽しく、彼は私が見つけた原理を応用して作品にするのが上手かった。VSチェンジャーの開発は、私たちの最高傑作といっても間違いない。彼と働けることは、私にとってとても誇らしかった。

 そんな私の感情を知ってか知らずか、ノエルは私に懐いた。それは決して恋愛とは呼べない、近すぎるような、遠すぎるような、不思議な関係だった。ノエルは気が向いたとき、どうやってか私の部屋に忍び込み、そこで生活をした。私が残業を終えて帰宅すると、ノエルが勝手に私のベッドで寝ていることがしばしばあった。そういうときのノエルは決まって、ノエルのではない、でもノエルに染み付いた女物の香水の匂いを纏っていて、私はそれを遠ざけるように離れた革張りのソファで1人で眠るのだった。

 そんな彼を理解できなくて、彼を叱ったこともある。すると彼は真顔になって私に聞いた。


「へめに怖い顔させてるの、僕で間違ってない?へめが僕のこと見てるって思ってていい?」


 そんなことを言うもんだから、私はますますわからなくなってしまう。ノエルのこと、見てるよ。ずっと見てる。私がそう伝えても、彼はあいまいに笑うばかりだった。


「へめは僕を見てないよ」


 ノエルに諭されると、やっぱり私は彼を幸せにすることはできないのだと感じた。それでも、私のベッドで眠るノエルを見つけるたび、どこかでホッとする自分がいることに気づいていた。

 

 

 

 


 ノエルの予言の通り、ノエルの任されていた仕事は、ほぼ全て私が引き継ぐことになった。彼がいなくなるまでの短い期間、私は彼のこなしていた仕事量をなんとか処理するのに精一杯で、感傷に浸る暇もなかったのは唯一の救いだった。


 ノエルがフランスを旅立つ前日の夜、ノエルのフェアウェルパーティが開かれた。業務を終えた職員は社内のカフェテリアに集まり、シャンパンを片手に話し込んだ。

 フェアエルパーティの開催にあわせて、職場長は私に"日本ではどのように送別会をするんだ?"と聞いた。わたしは日本を離れたときのことを思い出しながら「寄せ書きを書きますね」と答えた。軽率なその提案はなんと採用されてしまい、私は大きく後悔する。ノエル宛の大きな色紙が用意され、私も一筆したためるよう強要された。急かされるほど何を書けばいいのかわからなくなってしまって、結局「健康に気をつけて頑張ってください」と、よくわからないことを書いてしまった。

 ノエルはみんなの前でその寄せ書きと小さな花束を受け取ると、簡単なスピーチを披露し、みんなはそれに静かに聞き入った。私はそんなノエルを、いちばん壁際で、じーっと見ていた。


「ルパンコレクションの研究開発をすることは、僕にとっての喜びでした」


 みんな今回の任務が命がけになることは理解していたが、誰もそれに触れる者ははいなかった。ノエルのスピーチが終わるとみんなは心からの拍手を送り、フェアウェルパーティは終わりを迎え、それぞれまばらに帰路に着いた。


 私はそのままデスクに戻り、引き継いだ仕事の処理を続けた。週末であることやパーティがあったせいで、職場に残っている職員は私だけだった。シャンパンを飲んだあとだったが、自分でも驚くほど仕事は捗った。

 夢中になって仕事を片付けていると、気づいたときには時計は優に日付を超え、空は白み始めていた。ノエルはもう、エックストレインで日本に着いた頃だろうか。明るくなった空を見上げて、ノエルのことを考えた。

 重い体を引きずって帰路につく。肩がこったし、目が疲れた。なんとなく頭も重いような感じがする。

 自宅のドアを開けると、そこにはもちろん誰もいなくて、カーテンが半分だけ開いた窓から朝日が差し込んだ。バッグを勢いよく下ろす音が静かな室内に響いて、私はドタドタとそのまま寝室へ向かうと、そのままベッドに倒れこんだ。昨日交換したばかりの新品のシーツはサラサラして気持ちが良かった。しばらくしてから上着を脱ごうと上体を起こすと、枕元に小さな箱が置いてあることに気がついた。


「なにこれ」


 いい予感はしなかった。私は震える手で小箱を開く。箱の中では、華奢な指輪がキラキラと輝いていた。ゴールドのリングに銀色のダイヤモンドが1つはめられた、ずいぶんセンスのいい指輪だった。


「ばかじゃないの」


 誰からなんて、1人しかいない。どういうつもりなのかとか、なにを考えてるんだとか、聞きたいことはたくさんあった。何にも言わずに、こんなものを置いて出て行くなんて。私は腹が立って、それと同じくらい嬉しくて、ボロボロ涙を流してしまう。


 私はずっとノエルを見てるよ。ノエルは誰を見てるの?へめって、一言言ってくれるだけで、私たちは救われるはずなのに。