雛森千寿と私
【暁】
「俺もすっかり科学捜査班の実験台だな」
左肘正中静脈から採血をされながら、雛森は笑った。
五年前に重傷を負った雛森の身体は、その後、再生槽で保たれ、公安五係科学捜査班のもとで管理された。五年間、雛森は眠りながら医療技術の発展と身体機能の回復を待ち、つい数週間前にようやく治療を終え意識を取り戻した。
とはいえ本調子には程遠く、今はまだこうして様々な検査を受けながらリハビリテーションに努めている。彼がこなさなければいけないタスクは一般的な血液検査や画像検査に加え、実戦に即した身体訓練まで幅広く、連日の介入に辟易とするのも無理はなかった。
「今日はこの採血でおしまい」
「明日は何をやらされるんだか」
採取したばかりでまだ生あたたかい血液スピッツを遠心分離器にかける。
私が初めて雛森と出会ったのは、彼が昏睡状態に陥ってから三年目の春だった。臨床医を辞め科学捜査班へ所属した初年度の春、まず任された仕事が雛森の全身管理および治療だった。再生槽にたゆたう彼の姿を見て美しい男だと思った。
「あなたのデータは貴重だからね」
私が雛森に施した治療は、自分で言うのもなんだがかなり実験的だった。かつて彼のような患者は診たことがなく、似たような症例報告もなく、治療は困難を極めた。たくさん試した生物学的製剤のうちの一つが奏功したのは、奇跡的だったとも言える。
雛森は驚異的な回復を見せた。あれほどの重体からほとんど後遺症もなく回復できたのは予想以上だった。だからこそ、雛森のデータを集めることは大いに意味を持つ。今回は五年もかかってしまったが、次の患者ではもっと上手くやるために、彼のデータが必要だった。
「俺が『どうしてあのまま殺してくれなかった』と言ったとしても?」
からかうような口ぶりの裏に、棘が見えた。
雛森が重傷を負う前に何があったか、当時のレポートを見ればおおよそのことはわかった。園之人というメサイアのこと。任務で園を失い、重傷を負ったこと。雛森にとって園がどれほど特別な存在であったかということ。
「私は人の命を救うことに迷いはないわ。もしまたサクラ候補生があなたのように傷ついたら同じように治療する。もちろん、それがあなたでも」
私は毅然として言い切る。
雛森は一瞬怯んだ顔をして、すぐにいつもの飄々とした表情に戻った。
「冗談だよ。生かしてもらって感謝してる」
ピピッと電子音が鳴って、血液検体の迅速結果が機械に表示される。問題の無い数値が並んでいる。この調子であれば早期の復帰が望めそうだ。
「明日は十時に心理検査室へ」
明日の予定を告げて部屋を出ようとするのを雛森が呼び止めた。
「へめ」
私は思わず立ち止まって振り返る。雛森に名前を呼ばれるのは初めてだった。
「名前、へめっていうんだろ。俺たち同じくらいの年だし、仲良くしようぜ」
雛森の提案に、私は少しムッとする。
「あなたの方が五歳も上よ」
私はそう言い捨てると、部屋を出て背を向けたまま扉を閉めた。扉の向こうから雛森の大きな笑い声が聞こえた。
【悠久】
雛森は約一ヶ月で現場への復帰を果たした。メサイアスーツを身に纏った雛森は、いつもに比べて凛々しく見えた。私は思わず見惚れてしまい、雛森はそんな私をからかった。
「俺に会えなくなるのは寂しいだろ?」
「そうね。雛鳥が巣立つような気持ち」
二年前からほとんど毎日のように雛森の顔を眺めていたため、彼がこうして元気に動いて話しているのは今でもまだおかしな感じだった。しかしながら、それと同時に、彼がまたサクラ候補生として復帰できたことは、とても誇らしかった。私の治療によって蘇った彼を、自分の作品のように感じているのかもしれなかった。
雛森のメサイアには小暮洵が選ばれた。サクラ候補生としては勤勉で優秀な人材であると聞いている。雛森が小暮と初めて臨む任務は、太万島への潜入捜査だった。
「太万島ってどんなところ?」
「さあ。チャッチャと終わらせて、土産に饅頭でも煎餅でも買ってきてやるよ」
雛森は宣言通りに素早く任務を遂行し、チャーチへと帰還した。太万島は私が想像していたよりも寂しいところらしく、特に土産はなかった。
その後も、雛森は小暮と順調に任務をこなした。
月日が経ち検査や治療が必要なくなっても、雛森はなぜか科学捜査班の研究室に足繁く通った。雛森はいつも何をするわけでもなく、私が実験に取り組んだりデータを整理したりするのをじっと眺めているばかりだった。
「暇なの?」
今日も私が仕事をしている横で、雛森は悠々とコーヒーを淹れている。私がわざと嫌味たらしく質問すると、雛森は少年のような瞳で私を見つめた。
「何度も会いにくればへめが俺のこと好きになると思って」
私は一瞬ポカンとしてしまう。
その後、雛森が声を殺して笑うのを見て、ハッと、自分がからかわれたことに気がついた。
【月詠】
照る日の杜から一時帰還した雛森は腹部に重傷を負っており、すぐに再生槽へと運ばれた。
しかしながら、それ以上に深刻なのは精神的なダメージだった。
照る日の杜に園がいたことを、私は百瀬さんから聞いた。雛森は私に何も話さなかった。
雛森は、再生槽での治療を予定よりも早めに切り上げた。百瀬さんからの招集を受けた小暮が、勝手に設定を変更したのだった。本来はあと数時間の治療を予定していた。
「雛森さんから頼まれていますので」
小暮は私の制止を無視してタッチパネルを操作した。身体を取り巻く液体が排出され、雛森が意識を取り戻す。小暮はそれを確認すると、何事もなかったかのように部屋を出た。
目覚めた雛森はたんたんと身支度をはじめた。メサイアスーツを身に纏い、二丁拳銃の整備をはじめる。
私は呆れて頭を抱える。
「本気?今のあなた、とても戦える状態じゃない」
雛森は私の言葉に耳を傾けることなく作業を続ける。
「腹部の傷からの出血量、わかってる?膨大なストレスに晒された生体内ではカテコラミンが過剰に産生されてあなたの心臓と肺には大きな負担がかかってる。あなた自身も感じているはずよ」
「黙れ」
雛森は、その日はじめて真正面に私を見つめた。眼球は大きく散瞳していた。
「俺の全てを知っているような口ぶりをやめてくれないか」
雛森はそう言い捨てると、そのまま背を向けて治療室を脱けだした。
私は何も言い返すことができなかった。
皮肉なものだ。私は彼の全てを何だって知っていた。おそらく彼自身よりも詳細に。彼を構成する分子の一つ一つまで。
私は彼の心を理解できなかった悲しみに暮れながら、それでも頭のどこかで、彼を支配する悲しみから解放するにはどんな治療が必要だろうかと考えていた。私は彼のメサイアでも何でもなく、単に一人の科学者であった。
【黄昏】
南トラン共和国がワールドリフォーミングの脱退を宣言したことは、世界情勢を大きく揺がした。北方連合とアメリカが続いて脱退を決めたことで、日本は追従を余儀なくされた。公安五係とチャーチ、そして科学捜査班も解体が決まった。
他のドクターは散り散りに職場を離れた。ほぼ機能しなくなった科学捜査班において、気づけば私は最後の一人となり、とうとう先日には一嶋さんより直々に近日中の解雇および退去を言い渡されてしまった。
「もうここもお前しかいないのか。薄情なもんだな」
私が研究室の片付けをしていると、雛森が顔を見せた。照る日の杜の一件以来、雛森とは疎遠になっており、こうして話すのは久しぶりだった。
雛森はあの頃のようにコーヒーを淹れて、私の真正面のソファにどかりと座った。めずらしいことに、私の分まで淹れてくれたので、私も片付けの手を止めて隣に座る。
「へめはこれからどうするんだ」
彼が何事もなかったかのようにふるまうので、わたしも同じようにした。まるで本当に何もなかったみたいだった。
「どうかしら。母校の研究室に拾ってもらえたらと思っているけれど」
「奈落の科学者様は引く手数多で困るくらいだろう」
雛森はそう言って私をからかった。確かに他のドクターたちは再就職先には困っていないようだった。ありがたいことに私にもいくつか誘いはあったが、気乗りせず全て断っていた。そうこうしているうちに解雇通知を受け、慌てて母校に連絡を入れ返事を待っている状態である。
「あなたはどうするの?」
私は少し悩んでから、雛森に聞き返した。聞いていいものか、少し迷っていた。
オデッサ65からの帰還以降、雛森は以前にも増して鬱屈とし他者との交流を拒んだ。任務中に小暮が北方連合の捕虜となったことに原因があるのは容易く想像できた。
その後、追い討ちをかけるようにワールドリフォーミングの脱退とチャーチの解体が決まった。サクラとサクラ候補生はほとんど国から見放され、今となっては小暮を助けるために力を貸してくれるものはどこにもいなかった。
一方、今日、目の前にいる雛森は、憑き物が落ちたような表情をしている。彼が何かを決意したのだとわかった。
「俺は一人きりになってもやらなくちゃいけないことがあるから」
雛森は落ち着いた声で続ける。
「それに、大切なものを失ったままで生きるのはもうたくさんだ」
私は雛森の言葉を聞きながら、園のことと小暮のことを考えた。彼らが少し羨ましかった。
「北方へ行くのね」
「ああ。だからへめに伝えたくて」
雛森はそれだけ告げるとソファから立ち上がり、革手袋を外して右手を差し出した。握手に応えようと私も右手を差し出すと、ぐいっと引っ張りあげられて、私は雛森の腕の中に収まった。一瞬のことに混乱したが、抱きしめられているのだと気づいた。
「生かしてくれたこと、感謝してる。お前のおかげで俺はもう一度やり直せる」
雛森が囁く。きつく抱きしめられているのでその表情を見ることはできなかった。私はどうしたらいいかわからなくて、彼を抱きしめ返すこともできずに、ただ呆然としていた。なんだか泣いてしまいそうな気持ちだった。雛森の腕の中はあたたかかった。
「もう行くよ」
雛森はそれだけ言うと、私を閉じ込めていた腕を解いた。離れていく体温は私を寂しくさせた。それでも私は彼に縋るための手を伸ばせなかった。
「俺はあいつのメサイアだからな」
雛森は笑った。今までに見たことがない笑顔だった。
その日を最後に、雛森はチャーチから姿を消した。
【黎明①】
「おはよう。気分はどう?」
目覚めてまず視界に映ったのは、白衣を着た冴えない女だった。女は俺を知っているようだが、俺にとっては見知らぬ顔だった。俺はあいまいな意識の中で、自分の置かれている状況を考えた。再生槽にたゆたう身体は、重く気だるいが痛みはなかった。彼女は誰なのか。自分はなぜここにいるのか。記憶の糸をたどって思い出そうとすると、側頭部が少し痛んだ。そうだ、あれは任務で大怪我をして……。
「ユキ……」
自分の一番大切なメサイアのことを思い出す。女は一瞬ハッとした表情をしたがすぐ真顔に戻り、静かに続けた。
「園之人はもうここにはいないわ。あなた、五年も眠っていたのよ」
五年という月日は実感を伴わず信じられないような気持ちだったが、ユキを失ったことだけは不思議と理解できた。任務中に罠にはめられユキを失い、取り戻そうとして俺も致命傷を負った。だがどうやら俺だけが生き延びてしまったらしい。
「明日から訓練がはじまるわ。サクラ候補生として復帰するために頑張ってね」
女の名前はへめといった。俺が眠っている間に奈落にやってきた科学者だという。なかなか優秀な人材のようで、俺がこうして目覚めることができたのも彼女の力によるところが大きいらしかった。
復帰のための訓練は厳しかったが、復帰をすること自体に迷いはなかった。
訓練の中でも特に食事内容を制限されたのには参った。栄養面だけを考えたマズい料理と大量のサプリメントには嫌気がさして、文句を言うこともしばしばあった。
「眠ってる時はどんな薬をぶち込んでも何の文句も言わなかったのに……」
へめの傍若無人な口ぶりに、俺は苦笑した。へめの明け透けな性格が、俺には面白かった。
約一か月の訓練の後、サクラ候補生としての復帰が決まった。
へめはいつも研究室にこもりきりだった。試験管をいじっているときもあれば、顕微鏡を覗いていたり、あるいはネズミを切り開いたりしていた。何の研究をしているのかと聞けば嬉々として教えてくれたが、残念ながら話している内容は一割も理解できなかった。
風変わりな女だった。へめといるのは、悪くなかった。俺はサクラ候補生として働きだした後もたびたび研究室を訪れた。へめはそんな俺を不思議がった。
「何度も会いにくればへめが俺のこと好きになると思って」
いつだったかそうからかったとき、へめは一瞬間をあけてから淡く頬を染めて俺を叱った。
その後、照る日の杜でユキと再会したことを、へめには伝えなかった。小暮を失ったことも伝えなかった。俺は自分のことで精一杯で、この頃のことはあまり覚えていない。ただ、傷ついたように揺れるへめの瞳だけを覚えている。
チャーチの解体が決まった後、へめが五係を離れると一嶋から聞かされた。考えてみれば当然なのだが、それもわからぬほどに俺には余裕がなかったのだった。話を聞いたその日のうちにへめの研究室へ向かった。扉の前まで行ってから、なんだか気まずくてわずかにためらった。
研究室の中はずいぶんがらんとしていた。広い部屋の中で一人、へめもまさに荷物をまとめているところだった。いつもと違う景色に動揺したが、コーヒーメーカーだけは変わらずそこにあったので少し安心した。
俺は小暮を取り戻すため北方に行くことを告げた。へめはそれを想像していたようで、特に驚いた様子もなく頷いた。へめはまっすぐに俺を見つめた。真っ黒できれいな瞳を久しぶりに見たような気がした。
俺はなぜだか急にたまらなくなって、へめを抱き寄せた。腕の中のへめはあたたかく、離れがたかった。腕をほどいて表情を見ると、へめは泣きそうな顔で笑っていた。
へめは俺のメサイアではなかった。友人にも恋人にもなりえなかった。しかしながら、へめは俺に再び命を与えた、母のような女だった。もしこれを口にしたら、へめは怒るだろうか。少し年を間違えたくらいで、あんなに怒るのだから。
【黎明②】
科学捜査班を離職し居場所を失った私は母校の研究室に身を寄せ、生物遺伝子工学の研究に従事した。科学捜査班にいた頃に比べると使える予算は大幅に減り研究の規模は限られたが、それ以外は概ね不自由なく暮らしていた。
あれから二年経つ。たまに雛森のことを考える。次に小暮のことと、園のこと。彼らがいま何をしているのか、私は何も知らない。生きているのか死んでいるのかさえ。幸せだといいなと思う。幸せではないのかもしれないなとも思う。
私が雛森のことを考えないためにできることといえば、生活をすることだった。起きて働いて食べて寝る。今日も仕事を終えてスーパーへ向かう。金曜日だからカレーを作ろうと思う。肉は鶏肉がいい。会計を済ませると、ポリエステルのバッグはジャガイモとか人参とかでいっぱいになる。両手にその重みを感じながら帰路に着く。
帰り道で夕空を見上げる。平和だなと思う。ワールドリフォーミングはなくなって、五係もチャーチも解体になって、でもこんなにも平和だった。
「へめ」
背後から呼び止められる。私は思わず立ち止まって振り返る。
目の前には信じられない光景が広がっていた。癖の強い髪。飄々としたたたずまい。西日が描く影の形まで。
「雛森」
私は持っていた買い物袋を手放して、雛森に駆け寄る。触れた体はあの頃と同じ温度をしている。
「しばらく置いてほしいんだ」
こうして、私と雛森の奇妙な同居生活がはじまった。
【黎明③】
彼が雛森千寿でないことに気がついていた。
彼はとても流暢に二年間の経緯を話した。表向きの平和の裏で今もなおスパイによる戦争は続いていること。今は表だって行動できず一時的にこうして身を潜めていること。再び私に戦争に協力してほしいこと。彼の話は実に最もらしく聞こえた。
彼が雛森でないことを証明する方法は、私がそう思うからというほかなかった。例えば彼の口腔粘膜から遺伝子を取り出せば、そっくりそのまま雛森のDNA配列が検出されるだろう。口角の上げ方、カップを持つ時の指先、ふくらはぎの厚みだって、どれをとっても雛森のそれと間違いなかった。
しかし私にはわかってしまうのだ。おそらく彼は北方の技術から生まれた雛森のクローンらしかった。彼が何を望むのかはおおよそ検討がついた。私の研究データを狙っているのだろう。
情けないことに、私は彼が雛森でないと気づいていながら、彼を拒むことができなかった。雛森の姿をした彼が、そばにいるだけでよかったのだ。夢を見ているようだった。
彼が目的を遂げた時、私は処分されるのだろう。それでよかった。それがよかった。
最近はだんだん、雛森と彼の境があいまいになってきた。忘れようとしているのかもしれなかった。
毎朝目覚めると、隣で眠る彼の顔を眺める。数年前、再生槽で眠っていた時と寸分違わぬ美しい顔である。
「おはよう。気分はどう?」
やわらかい朝日を浴びた雛森がゆっくりと目を開ける。
「……へめ」
目覚めて一番に私の名を呼ぶ彼が、なぜだかひどく悲しかった。