(三角)
「茜ちゃん、ギター上手くなったね」
三角さんがボソッとそんなことを言うものだから、私は驚いて、せっかく褒められていたギターを練習していた手を止めて立ち上がってしまう。
「本当ですか?!」
「私は嘘をつかないよ」
隣に座ったまわたはまの三角さんは、私が急に立ち上がったことに特に動じるわけもなく淡々と答えた。私はなんだか少し恥ずかしくなってしまい、プリーツの裾を少し直してから着席しなおした。
来月の文化祭を目標に、クラスメイトとガールズバンドを立ち上げて約一ヶ月が経過しようとしていた。当時、音楽の経験が全くないにも関わらず友人の勢いに乗せられてギタリストを快諾してしまった私は、慌てて駅前の中古楽器ショップに駆け込んで、店員さんのおすすめするギターを購入した。そのときの店員さんが三角さんである。
初めて見た三角さんは、ロン毛で愛想も悪いしぽやんとしているところがあって、ちょっとうさんくさいな、と思ってしまった。けれど私が来店した経緯を話すととても親身になって相談に乗ってくれたし、よく見るとなかなかのハンサムだった。楽器を購入した後も、私は何度もこのお店に来ては、こうして三角さんにギターの教えを請うている。三角さんの教え方はたぶんとても上手で、この一ヶ月で初心者にしてはまずまず聴ける演奏くらいにはなってきたはずだった。
「ただサビのフレーズはまだまだ」
「うぅ」
「今日はもう遅いから家に帰って自主練しなさい」
三角さんはそう言い残すと、立ち上がってレジの奥に消えていった。私はその背中に向かって「ありがとうございしまたぁ」と声をかけて、ギターの片付けをはじめる。
制服のスカートのポケットには、文化祭の入場チケットが入っている。サビのフレーズをつまづかずに弾けるようになったら、三角さんに渡す予定だ。
(関崎)
「結婚しよう」
約一ヶ月ぶりに再会した秀治は、私に銀色の指輪を差し出しながらそう言った。
秀治とは付き合って四年になる。秀治がまだテレビ局員だった頃、番組制作会社のアシスタントディレクターをしていた私が彼に一目惚れをして声をかけたのがきっかけだった。
ここ数ヶ月、私は仕事に追われ職場に寝泊まりする日々が続いており、秀治と会う頻度も減っていた。久々に秀治から送られてきたメールには「這ってでも来い」という脅迫めいたメッセージと、レストランの予約時間と住所のみが記されていた。なんとか仕事を終わらせて指定された場所に来てみると、とてもオシャレなレストランだったので驚いた。仕事終わりのままここへ駆け込んだ私は、結局五分程遅刻したし、服装もパーカーにジーンズというだらしのない格好だったのでかなり焦った。受付のお姉さんに「お連れ様がお待ちです」と案内された先は個室だったので、服装のことを気にする必要はなさそうで少しだけ安心した。もしかしたら秀治がそういうところを気にしてくれたのかもしれなかった
「えっと……」
秀治の近況を聞きながらおいしい食事を楽しみ、デザートのシャーベットを食べているタイミングでのプロポーズだった。メッセージを受け取ったときから、なんとなくそんな気はしていたのだ。だって私は秀治の夢を知っていたから。だからこそ素直にうんと返事ができなくて、私はもじもじしてしまう。
「私、いま仕事が楽しいんだよね」
「奇遇だな。俺もだ」
「来期から深夜のバラエティ番組のディレクターもさせてもらえることになったから、これからもっと忙しくなると思う」
「そりゃめでたいな」
私が指輪を受け取ろうとしないので、秀治は一度ケースをテーブルに置いて、なんでもないみたいにシャーベットをパクパク食べはじめた。私も秀治と同じようにスプーンを進めるけれど、きっとおいしいはずなのに、なんだか混乱して味はよくわからなかった。
嬉しくないはずがないのに、秀治になんて伝えたらいいかわからなくて、私はポロポロ泣けてきてしまう。
「私、秀治が望むような幸せな家庭、作れる自信ないよ」
自分で言っていて、情けなかった。
秀治の夢を知っていた。お笑いで成功して、幸せな家庭を築き、庭付き一戸建てに住むんだと、出会った頃から繰り返し言っている。そのために強い決意でテレビ局を辞めたことも。
それでも私にも夢があった。今の仕事はかなりキツいけど楽しい。大きな仕事を任せられるようになったことも嬉しかった。秀治と一緒に過ごす時間はどんどん減っているけれど、それ以上のやり甲斐を感じていた。
秀治は呆れたようにため息をつく。それから、泣いた私を慰めるわけでもなく、シャーベットをモリモリ食べながら、自信満々に笑うのだ。
「それでも俺が好きなのはお前だけなんだから、しょうがないだろ」
秀治がそんなことを言うから、私は我慢できなくなってわんわん泣いてしまう。
「私も秀治が好きです」
「知ってるよ」
シャーベットを食べ終わった秀治は、手を拭いてから私の左薬指に指輪をはめた。一粒のダイヤモンドがキラキラと眩しく光っている。この人と幸せになりたいと、心から強く思った。
(照)
大通りから少し離れた横道に佇む、この喫茶店の雰囲気を気に入っていた。赤いソファ、センスの良い陶磁器、レトロなBGM、おいしいナポリタン。数年前、会社から帰る途中に偶然ここを見つけた時から、毎週末、仕事終わりにここで食事をするのが私の楽しみになっていた。ここで過ごす穏やかな時間は、私にとって何よりの贅沢だ。
今日の気分は分厚いシナモントーストとアメリカン。私の注文を受けて、マスターが少し離れたカウンターの奥でコーヒーを淹れはじめる。ここのコーヒーは出来あがるまでに時間がかかる。鞄の中からお気に入りの小説を取り出して、到着を待った。
「お待たせしました」
声をかけられて小説から目線をあげると、はじめて見る店員さんだった。スラっとした体型に、黒いエプロンが良く似合っている。まだ二十才くらいだろうか。切れ長の目が印象的な男の子だ。
「葵ちゃん。彼、先週からウチでアルバイトしてる照くん」
マスターがカウンターの奥から私に声をかけた。普段はマスターと奥さんでお店のやりくりをしていたが、このたび奥さんが膝の手術で入院することになり、急遽アルバイトを採用したのだという。
「紀月照です。葵さんは常連さんだってマスターから聞いてます」
「いや、そんな」
照くんはシナモントーストとアメリカンを順番にテーブルに並べながら、控えめに笑った。人当たりの良い感じの笑顔だが、京都なまりの話し方はなんとなく色っぽい。
「お店の先輩として、色々教えてくださいね」
照くんは注文を並べ終わった後も私の隣に立ってニコニコしている。なんだか居たたまれなくなった私は、シナモントーストを一口かじる。いつもより少し砂糖が多いみたいだった。照くんが作ったのかもしれなかった。
おいしいです、と伝えようと私が照くんの方を向いたのと同時に、照くんが人差し指で私の髪の毛を一束すくい上げたので、私は口を開けたまま固まってしまう。
「葵さんの髪、綺麗ですね」
「照くん、3番テーブルの注文お願い」とマスターから声がかかると、照くんはニコッと私に笑いかけてそのまま手を離して仕事に戻った。私は何が起こったのかわからなくて固まったまま、コーヒーだけが冷めていく。
この店でもう穏やかな時間は過ごせそうにない。触れられたところが、熱かった。