うたかた

 

 糸永が死んだらしい。


 その春の夜に、智博からメールが来た。何かがあった時に連絡をくれるのは、いつも智博だ。連絡がまめなのだ。


 メールには昨日糸永が死んだこと、明日の夜に別府で葬式が行われることだけが簡潔に書いてあった。それ以外のことは何もわからなかった。


 智博には、わかった、連絡ありがとう、とだけ返事をした。明日は仕事があり、大阪から別府へ駆けつけることは難しい。


 糸永とは、親しくしていた方だと思う。というより、糸永が俺を慕ってくれていた。高校を卒業した後も、たびたび連絡とっていた。ただ、大学を卒業して、社会人になって、忙しくしているうちに、それきりになっていた。


 そういえば、最後に糸永と連絡をとったのはいつだったかと、スマホの履歴をたどる。およそ2年前だった。大学生の頃、俺がギターの弾き語りを動画サイトへアップロードした時に、糸永が感想をくれたのが最後だった。

 

『今回も最高です!』


 糸永からのメッセージに添付されたアドレスをタップして、動画サイトで自分の弾き語りを確認する。1.2分ほど聞いて、すぐに閉じた。


 智博からのメールをもう一度読み返した。現実味のない話だった。あまり考えないようにして、ベッドに入った。

 

 

 

 

 

 

 


「事故だったらしいわ」

糸永の知らせがあったその週末、高校時代の仲間たちと集まった。もともと、会う約束をしていた。当時よく来ていた喫茶店で、俺と夢ノ介はアイスコーヒーを、ゆずと智博はアイスカフェラテを頼んだ。


 葬式の当日、智博は仕事の都合をつけて別府へ駆けつけたのだという。


「急なことだったみたいで、おじさんもおばさんも憔悴してたわ。気の毒にな」


 グラスのフチを指先でなぞりながら、智博が言った。


「糸永くんに会ったの、1年前くらいが最後やな。ゆずと仕事で別府に行った時、案内してもらったわ」


 智博は東京の大学を卒業した後、ピアニストとして世界を飛び回るゆずのマネージャー業務をしている。夢ノ介は、家業を継いだ。俺は、音響機器の営業として働き出して2年目になる。智博とゆずがお得意様になってくれたおかげで、なんとか成績を保てている。それぞれ忙しくしており、こうして集まるのは久しぶりだった。


「虎男は何か聞いてないん?」

「俺?」

「仲良かったやんか」


 夢ノ介がそう言った。俺以外の3人が、じっとこちらを見た。視線に刺されたように、俺は動けなくなってしまう。


「……まぁええけど。それより、これからどうする?」


 俺の沈黙は、ゆずの一言で流された。助かったと思った。みんなは好き好きに話し出した。俺はごまかすようにアイスコーヒーを飲み干した。


 それから1時間ほど話し込んだ。糸永のことを話したのは、はじめの数分だけだった。かえって、あまり話さないようにしていたのかもしれなかった。また会おうと、みんな口々に約束をして、解散した。

 

 喫茶店からの帰り道には、雨が降っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 家に帰ると、玄関の前に糸永が立っていた。ドアの前の小さな水溜りから、生えているみたいだった。足はあるが、全体的に色が薄くて、糸永のむこうに景色が透けて見えている。


「ユーレイ?」

「そうみたいです」

「ユーレイ、はじめて見たわ」

「僕も、ユーレイになったのははじめてです」


 糸永はとぼけた調子でそう言った。ヘラヘラとした話しぶりは、生前のままだった。


「水を用意してもらってもいいですか?」


 糸永は変なことを言う。


「水?喉、渇いたか?」

「いえ、そうじゃなくて」


 糸永の指示通りに、玄関に糸永を置き去りにしたまま、風呂へ向かった。風呂桶に水を張ってリビングまで運び、テーブルの上に置く。玄関の方を向き直ると糸永はいつのまにか消えていて、振り返ると、風呂桶から糸永が生えてきた。


「わあ」

「うふふ」


 糸永は水を触媒にして移動するのだと言う。コップ一杯ほどあれば、十分らしかった。


「気がついたら虎男さんのところにいたんですよねえ」


 糸永はしみじみとそう言った。マグカップにお茶を注いで渡すと、糸永はごく自然にそれを受け取って口にした。ユーレイも食事はできるらしい。


「なんかやり残したことでもあるんか」

「うーん、そういうワケでもないんですけど」


 糸永が死んだのはつい最近のはずなのに、糸永のユーレイは出会った頃の面影を宿していた。服装も、あの頃のままだ。糸永は、見る人の考えが反映されているんじゃないかと言った。確かに、成人してからの糸永の姿を、俺はろくに思い浮かべることができなかった。


「虎男さんが元気そうでよかった」


 死んだ奴が他人の体調の心配かい、とつっこもうとしたが、糸永はそれだけ話すと、一瞬のうちに消えた。ユーレイってそういうものらしかった。ちゃぽん、と風呂桶の水面がはねた。

 

 

 

 

 

 


 それから、糸永は何度か俺の前に現れた。毎日というわけではなく、思い出したかのように「あちら」から「こちら」に来るらしかった。


 還っている時には何をしているのかと聞くと、糸永は「別に」とそっけなく答えた。不機嫌なのかと思ったが、笑っていた。


「自分でもよくわからないんです。うとうとしているみたいな感じでしょうか」


 糸永は水から出てくるけど、濡れているわけではない。シャボン玉みたいな薄い膜が糸永の皮膚全体を覆っていて、触るとつるりとしている。


 糸永のユーレイに出会ってから、約1ヶ月が経過していた。リビングには風呂桶が常備してある。たまに水を継ぎ足す。リビングにいない時は、たいてい風呂にいる。


 帰ると話し相手がいる生活は悪くなかった。昨日見たテレビの話や、最近聴いている音楽のこと。なんてことない話をだらだらとするのは、学生時代に戻ったようで楽しかった。


「歌はもう、歌わないんですか」


 ある日、糸永が聞いた。視線の先では、ギターケースが埃をかぶっていた。


「虎男さんの歌、好きでした」


 糸永が続ける。糸永は昔から、好意を包み隠すことがない。そういうところが、俺は少し苦手だった。


「そうやなあ」


 俺は否定も肯定もせずに、なあなあに返事をした。糸永もそれ以上追求しなかった。

 

 

 

 

 

 

 


 糸永と休日に外出することも少なくなかった。外出する時は、水筒からコップに水を注ぐと、そこから現れる。熱湯や、ジュースやコーヒーからは、出てこない。


 外出先の公園の売店で、ラムネを買う。透き通った瓶の中で、ビー玉がキラキラ光っている。初夏らしく、天気の良い日だった。木々は青々しく、吹く風はぬるかった。


 公園のベンチに腰をかけて、水筒からコップに水を注ぎ、ベンチに置いておく。しばらくぼうっとしていると、いつのまにか隣に糸永が座っている。


「死んだ日も、こんな天気でした」


 糸永が死んだことについて話すのは、はじめてのことだった。 


「死んだ時って、どんな感じだった?」

「どんな感じだったと思います?」


 糸永は、ヘラヘラしていた。糸永って、こういうところがある。肝心なことは、話そうとしない。


「お見合いさせられたんですよね」


 思いもよらぬ言葉が出てきて、思わず糸永の方を見る。糸永は俺の方を見ずに、空を飛んでいる鳥なんて見ている。


「お見合いって、あの。結婚相手を決めるやつ?」

「それ以外のお見合いがあるんですか?」


 糸永は馬鹿にするみたいに笑った。糸永って結構、人を見下すようなところなあったなあと、その顔を見て思い出した。


「地元の市議会議員のお嬢さんでした。落ち着いていて、悪い人じゃなかった」


 糸永の迫力がすごくて、俺は黙ってしまう。


「まあ、もう関係ない話ですけどね」


 ユーレイなんで、と糸永は笑った。俺は何も言えずに、ラムネを飲み干す。糸永は音も立てずに、すぅっと消えた。

 

 

 

 

 

 

 


 その日は朝食をとらずに、水ばかりをガブガブ飲んでから部屋を出た。機材の受け渡しのため、智博に会う約束があった。


「虎男、最近つかれとるんちゃうか」


 智博は俺の顔を見るなり言った。


「えっ?」

「疲れが溜まってるんやろ」


 確かに、ツかれているのかもしれなかった。最近、妙に眠かった。


「しっかり休めよ」


 智博はそう言って俺の肩を叩いた。智博は優しい男だ。昔からそうだ。


 智博との取引が終わった後、そのままの足で家へ帰った。リビングに糸永がいなかったから、風呂を覗いた。最近、帰宅して糸永の存在をを確認することが習慣づいていた。


 糸永はコップに浮かせた花びらのように、ふわりと浴槽に浮きながら眠っていた。そのままじっと糸永を眺めていると、しばらくして糸永が眼を開けた。


「おかえりなさい」

「ただいま」


 俺は洗い場にしゃがみこんで、そのまま糸永と話し込んだ。糸永のいる風呂場は、なぜか底冷えがした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨の日は、糸永はどこにでも現れる。その日も、仕事の帰り道に、糸永は現れた。糸永に傘をさしかけると、糸永は驚いた顔で俺を見た。


「相合傘なんてはじめてです」


 糸永にはつるりとした膜があって、水を弾くので濡れないのだが、自分ばかり傘を差しているのは、さすがに気が悪い。小さな傘なので、俺も糸永も傘から肩がはみ出している。触れ合う距離だが、糸永に体温はない。ユーレイって、そういうものらしい。


 そういえば、と糸永は口を開いた。


「この前、柏木さんに会いましたよ」

「いつ?ていうか、智博も、糸永のこと見えるんか」


 俺は驚いた。先日会った時、智博からそんな話は聞かなかった。とはいえ、俺も糸永のユーレイと暮らしていると、誰にも話していないのだが。


「虎男をどうするつもりだって、叱られちゃいました」


 叱られたと言う割に、糸永はなんだか嬉しそうにしている。


 2人で並んで家まで帰る。

 

 だんだん、糸永から離れるのが、つらくなってきたようにも思う。このままではいけないと思っているが、だんだんその思いさえ薄れてきている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 海が見たいと、糸永が言った。バイクで30分ほどかけて、海辺にたどり着いた。


「別府の海とは、ずいぶん違いますね」


 糸永は透けた足で海に浸かった。糸永が歩くと、海面に波紋が広がる。周囲に人はいなかったが、もし俺以外の人が見たら、魚が跳ねているようにでも見えるのだろうか。


 俺は砂浜から海と糸永を眺めている。波の音を聞いていると眠くなってくる。意識がぼんやりと、遠のいていく。


「虎男さんもこっちにきませんか」


 糸永が俺に向かって左手を差し出した。俺は糸永に誘われるままに、身を乗り出した。靴が濡れたが、かまっていられなかった。膝より上が水に浸かるあたりで、糸永が言った。


「本当にただの事故だったと思う?」


 糸永がじっと俺を見る。瞳は碧色に光っている。俺はゾッとして、糸永の手を振り払う。


「俺は、そっちにはいかない」


 俺がそう言うと、糸永はつまらなそうに瞳を伏せた。糸永のまつげが束になって影を作る。


「そういうところが好きでした」


 糸永は、そういうと、砂みたいにサラサラと、海に溶けて消えていった。


 それを見届けたところまでしか、覚えていない。どうやら、気を失ったらしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると、病室にいた。1週間ほど、意識が無い状態で、点滴から栄養を摂取していたらしい。


 意識不明で海岸に倒れていたところを、たまたま通りかかった人が助けてくれたのだと、医師から説明された。目が覚めたとき、父も母も姉も、大泣きしていた。


 スマホを確認すると、友人たちから、安否を心配する連絡が入っていた。糸永からも、メッセージが1通届いていた。


「大丈夫になりましたか?僕は僕で、元気です。ヘンシンフヨウ」


 返信不要なので何も返さなかった。


 退院した後、ギターをはじめた。休日に細々と、好きな歌を歌っている。もう少し満足に弾けるようになったら、海に行って弾いてみようと考えている。