真・エピローグ

 

 その夜の動画撮影は、驚くほど順調に進んだ。

「今日はずいぶん巻きましたね。この後みんなでごはんでも行きますか?」

 機材を片付けはじめるスタッフさんたちに、なかるてぃんが声をかける。ちょうど夕食どきだ。撮影終わりにスタッフみんなで食事をするのは今までにもままあることだった。けれど、今日の俺には何より優先すべき用事がある。

「悪いけどパス。ミナちゃんとデートだからさ」

 俺はなかるてぃんに向けてわざとらしくそう言い放った。なかるてぃんがじっとりとした目で俺を睨む。

「僕から横取りしたくせによくそんな堂々と言えますね」
「は? 別に一回もお前のもんだったことねーから。勘違いすんなよ」

 俺は鼻で笑いながら、手際よく荷物を鞄に詰め込んだ。壁際の鏡で軽く髪を整える。

「じゃ、お先に」

 俺はひらりと手を振ってその部屋を後にした。
 


 駅の改札を出て、待ち合わせ場所の広場へ急ぐ。人混みの中にミナちゃんを見つけた瞬間、俺の頬は自然と緩んだ。

「ミナちゃん、お待た……せ……」

 けれど、上げた右手が空中で凍りつく。よく見れば、ミナちゃんの隣には見知った大きなシルエットが並んでいた。

「ヤスさん、奇遇ですね」

 なかるてぃんは俺と目が合った瞬間、これ以上ないほど爽やかな笑顔で手を振ってみせた。

「奇遇なわけあるか! なんでお前がいるんだよ!?」
「ミナちゃんに『僕も行っていい?』って聞いたら『いいよ』って言うからさ」

 詰め寄る俺にも構わず、なかるてぃんは首を傾けてへらへらと笑う。隣のミナちゃんに目線を移すと、ミナちゃんは申し訳なさそうに身を縮めている。

「ごめんなさい。悠くんから連絡が来て、お話するのが久しぶりだったから、つい……。嫌でしたか?」

 愛しい恋人に上目遣いでそう言われて、嫌だと即答できる男がいるだろうか。

「ミナちゃんは悪くないよ。全部コイツが悪い」

 俺はなかるてぃんを指差して吠える。けれど、当の本人はどこ吹く風だ。

「まあまあ、せっかくだから親睦を深めようよ。意外と僕ら三人で喋ることってなかったしさ」

 なかるてぃんがミナちゃんの肩に親しげに手を置こうとしたので、俺はすかさずその手を叩き落としてミナちゃんを引き寄せた。

「親睦なんて深めなくていいんだよ! 俺はミナちゃんと二人でイチャイチャしたかったの!」
「いいじゃん、減るもんじゃないし。ほら、おなか空いたでしょ? あそこのイタリアン、おいしいって評判だよ」

 なかるてぃんは俺を無視して店の方へ歩き出す。ミナちゃんも楽しそうにその隣を並んで歩く。俺は釈然としないまま二人の後を追った。

 

 結局、三人での食事会は終始ほがらかに進んだ。ミナちゃんは声を立てて笑い、俺もなかるてぃんもそれなりに楽しい時間を過ごしたと思う。

 まとめて会計を済ませて店を出る。

「おいしかったあ。ヤスさん、ごちそうさまです」
「俺が払うのはミナちゃんのぶんだけだからな。お前のぶんは後できっちり払えよ」

 店先でなかるてぃんが満足そうにおなかを撫でた。しばらく並んで歩いた後、ふとなかるてぃんが足を止める。

「ヤスさん、ミナちゃんのこと、よろしくお願いしますね。僕の大事な幼馴染なんだから」

 その声はいつもより低く真剣だった。俺が言い返す間もなく、なかるてぃんはミナちゃんの方を向いていたずらっぽく笑う。

「ミナちゃんもヤスさんを甘やかしすぎないように」
「ふふ、気をつけます」

 ミナちゃんが楽しそうに笑うのを見て、なかるてぃんは優しく目を細めた。

「じゃあ、僕はこっちだから。またね」

 なかるてぃんは軽やかに手を振ると、夜の街へと背を向けた。街灯に照らされたその広い背中は、振り返ることなく雑踏の中へ消えていく。

「きっと悠くんなりに気を遣っているんだと思います」

 嵐が去った後のような静けさの中、ミナちゃんが俺の顔を覗き込むようにして言った。その瞳にはどこかあたたかさが宿っている。

「……わかってるよ」

 俺はぶっきらぼうに答えて、小さくため息をついた。

 わかりづらいけれど、俺たちの間に妙なわだかまりが残らないよう振る舞ったのだろう。たぶんなかるてぃんなりの優しさなのだ。今更気を遣い合うような間柄でもないのに。

「わかってても嫌なもんは嫌なの」

 俺は唇を尖らせて、拗ねるような口ぶりを隠せなかった。

 なかるてぃんが良いやつなのは俺が一番よく知っている。もし俺がなかるてぃんの立場だったら、きっと同じように振る舞うことはできなかっただろう。俺を選んでくれたミナちゃんの気持ちを疑っているわけじゃない。けれど、もしミナちゃんがまたなかるてぃんに惹かれたとしても、文句を言えないくらいなかるてぃんは魅力的な男だ。

「ふふ、ヤスさんヤキモチですか? かわいい」

 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、ミナちゃんはからかうように目を細めてくすくすと笑った。その屈託のない笑顔が、俺の胸の奥をちりりと焦がす。俺はムッとしたフリをして、ミナちゃんの肩を強引に引き寄せた。ミナちゃんの体温が伝わってきて、幸せな気持ちがじわじわと満ちていく。

「じゃあ今夜はそんなかわいい俺が、かわいいミナちゃんをかわいがっちゃおうかな」

 ミナちゃんの耳元で声を忍ばせて囁く。ミナちゃんは先ほどまでの余裕はどこへやら、顔を耳まで真っ赤に染めてうつむいた。そんなミナちゃんの反応がたまらなく愛おしい。

「……そういうことさらっと言わないでください」
「言わせたのはミナちゃんでしょ。ほら、帰ろう」

 ようやくはじまる二人きりの時間を確かめるように、俺は繋いだ指先に力を込めた。

エピローグ二番目の恋

 


 その日は久しぶりに職場の食事会があった。病棟全体の比較的大きな飲み会だ。普段は積極的にそういう場に参加することは少ないけれど、今日は後輩たちに熱心に誘われたので断れなかった。


 居酒屋に入ると、入り口付近の座敷に案内される。座席には既に後輩のAくんとBくんが座っていた。私は二人に挟まれる形で席に着く。二人はまだ研修医一年目で、瞳は医学への情熱に溢れキラキラと輝いている。はじめは医学や診療のことを熱く語っていたけれど、次第に話題はプライベートなことへと変わっていった。


「園田先生って最近綺麗になりましたよね」

「俺もそれ思ってた!さては恋人でもできましたか?」


 Aくんが唐突に言い、 Bくんもそれに同意した。私は飲んでいた梅酒を吹き出しそうになって、慌ててグラスをテーブルに置いた。


「えーっと、あの、その……」


 確かにその通りなんだけれど、友人や知人とそんな浮いた話をした経験がないので、なんと返すのが正解かわからなかった。戸惑うばかりの私を見て、AくんとBくんは目を合わせてにやりと笑った。


「園田先生って本当にわかりやすいですよね」

「どんな人ですか?まさか病院の人?」

「職場の人じゃないの。友達の友達っていうか……」


 私は慌てて首を振る。正確に言えば幼馴染の仕事仲間なのだが、まあ嘘は言っていない。


「どんな仕事してるんですか?」

「えーっと、なんて説明したらいいんだろう、その……」

「説明できないような仕事ってことですか?」

「ち、違う!なんていうか、芸能?」


 私がそう答えると、二人は一瞬固まって、それから同時に声を上げた。


「芸能人?!売れないバンドマンとかじゃないですよね?!」

「園田先生ってピュアだから、騙されてないか心配だなあ」

「そんなことない!ヤスさんは私にはもったいないくらいの素敵な人だから!」

「へえ、ヤスさんって言うんですね」


 私が思わず声を荒らげて反論すると、二人はさらににやにやと笑った。


「今からヤスさん呼んで、俺たちの園田先生を弄ぶなって説教してやりましょうよ!」


 Aくんがふざけた様子で私を揶揄った。その時、テーブルの上に置いてあった私のスマホが震えた。画面を見ると、ヤスさんからの着信だった。私は慌ててスマホを手に取ろうとしたけれど、Aくんが私より先にそれを奪い取った。


「ヤスさんですか?いま職場の飲み会なんですけど、園田先生酔っちゃって、迎えに来てもらえませんか?」


 Aくんは嬉々として嘘をついた。私は必死にスマホを奪い返そうとするけれど、Bくんに取り押さえられて敵わない。Aくんは店名と住所を伝えると電話を切る。


「ヤスさん、すぐ来てくれるって!」


 AくんとBくんがハイタッチをしている。私は顔を覆ってテーブルに突っ伏した。ヤスさんに申し訳ない。私よりずっと忙しい人なのだ。でも会えると思うと正直嬉しい気持ちもあった。


「園田先生、楽しみですね」

「ヤスさん、どんな人なんだろう」


 AくんもBくんも浮かれた様子でニコニコしている。


 ほどなくして、店の入り口の引き戸がガラリと開いた。大きな音に反射的に振り向くと、そこにヤスさんが立っていた。私は慌てて立ち上がってヤスさんに駆け寄る。


「ヤスさん、本当にごめんなさい。後輩が悪ふざけしたのを止められなくて」


 ヤスさんは慌てる私を見て、くすりと小さく笑った。


「大丈夫だよ。ちょうど会いたいと思って電話したところだったし。思ったより平気そうでよかった。帰ろう」


 ヤスさんはそう言うと、自然に私の肩を抱き寄せた。肩に回された腕があたたかくて胸が高鳴る。私はヤスさんに寄りかかるようにしてほっと息を吐いた。ヤスさんは私を抱いたまま、後輩たちの方を向いた。


「ミナがいつも世話になってます」


 丁寧だけど、どこか甘い響きのある声だった。AくんとBくんは目を輝かせてすぐに反応した。


「園田先生、こんなイケメンと付き合ってたんですね!」

「ヤスさん、園田先生のどういうところが好きなんですか?!」


 二人が興奮気味に質問を投げかけてくる。ヤスさんは私を強く抱き寄せたまま、振り返って後輩たちを見た。そしてにやりと笑って、牽制するような甘い声で一言。


「全部」


 私は一瞬で顔が真っ赤になって、ヤスさんの胸元に顔を埋めながら手で顔を覆った。後輩たちが大騒ぎしている声が遠くに聞こえる。


 ヤスさんはそのまま私を連れて、店を出た。外の空気が冷たくて、頰の熱が余計に感じられる。ヤスさんは私の手を自然に握って指を絡めた。繋いだ手があたたかい。駅に向かってゆっくり歩きながら、私は小さく呟いた。


「今日は本当にごめんなさい」

「いいって。むしろ嬉しかったよ。酔ったミナちゃんなんてレアだし」

「酔ってません!ほとんど飲んでないもん」

「ふーん。でも顔赤いよ?」


 ヤスさんが私の顔を覗き込んで、からかうように笑う。私は恥ずかしくて、ヤスさんの腕に軽く体当たりをした。


 駅の改札が見えてきたところで、ヤスさんが足を止めた。私の耳元に顔を寄せて甘く囁く。


「今日、ミナちゃんち泊まっていい?」


 耳に息がかかって、ぞわりと背筋が粟立った。私はうつむいたまま静かに頷く。


「じゃあ、帰ろうか」


 ヤスさんは満足そうに目を細めると、私の髪に軽くキスを落とした。


 手を繋いだままヤスさんの隣を歩く。この人が私の隣にいてくれる。きっとこれからもずっと。

16.二番目の恋

 

 


 その夜、話があるとなかるてぃんに呼び出されていた。場所は駅前の喫茶店だ。本社や劇場以外で待ち合わせるなんてずいぶん久しぶりだった。


(……ミナちゃんのことだろうか)


 付き合ったとか、そういう報告をされるのかもしれない。想像しただけで吐き気がした。自分から別れを切り出しておいて嫉妬を抱くなんて勝手すぎる。けれど祝える気がしなかった。


 指定された喫茶店に着いたのは、約束の時間の少し前だった。ガラス扉を押して中に入る。指定された窓際の席を探すと、そこに座っていたのはなかるてぃんではなくミナちゃんだった。


 一瞬、頭が真っ白になる。謀られた。俺はすぐに踵を返して店を出ようとした。


「だましてごめんなさい!こうでもしないと会ってもらえないと思って」


 背後からミナちゃんの涙声が響く。ミナちゃんの細い指が俺の袖を掴んだ。周囲の客の視線がチクチクと刺さる。俺は深く息を吐いて、ミナちゃんの向かいの席に腰を下ろした。


「何? なかるてぃんと付き合ったとかいう報告ならいらないけど」


 イライラを隠せずにそう吐き捨てると、ミナちゃんは小さく首を振った。


「私、ヤスさんを好きです」


 思ってもみない言葉が投げかけられて、俺は驚いた。あまりにも自分に都合が良すぎて、夢なんじゃないかと疑う。ミナちゃんは頬を赤くしながら続けた。


「ヤスさんと出会う前は、ずっと悠くんを好きでした。でもちゃんと悠くんと話し合ってわかったんです。ヤスさんが好きです。代わりなんかじゃありません」


 ミナちゃんははっきりと言い切った。


「ヤスさんのことが好きです。誰より一番大切で、好きです」


 ミナちゃんは何度も繰り返す。ミナちゃんの瞳は嘘をついているようには見えなかった。胸の奥でぐちゃぐちゃになっていた嫉妬や惨めさが、解けるように溶けていく。俺は縋りつくように声を絞り出す。


「……俺、本当はミナちゃんが思うほど余裕なんてなくて、ダサいやつだよ」

「ヤスさんならどんなヤスさんでもかっこいいです」

「他のやつなんか一瞬だって見てほしくないし、束縛もするよ」

「ヤスさんにわがまま言ってもらえるの嬉しいです」


 俺の言葉に、ミナちゃんは優しく微笑んだ。涙で視界が滲みかける。


「……本当に俺でいいの?」


 俺は確かめるように、小さな声で尋ねた。


「ヤスさんがいいんです」


 ミナちゃんは俺の手をぎゅっと握る。その指先は熱く、震えていた。


「ヤスさんを好きです。もう一度、私と付き合ってくれませんか」


 ミナちゃんの瞳はキラキラと輝いて、まっすぐに俺を映している。


「……ミナちゃんって、ちょっと男前すぎるかもね」

「ヤスさんほどではないですよ」


 俺はそう揶揄うと、ミナちゃんもおかしそうに笑った。俺はミナちゃんの手を握り返す。強く、離さないように。


「好きだよ、ミナちゃん」


 ようやく伝えられた。ミナちゃんの瞳が次第に涙に揺れて、ぱちんと瞬きをした瞬間に溢れた。俺はテーブル越しに身を乗り出して、ミナちゃんの頬にそっと触れ、その涙を拭った。

15.二番目の恋

 


 その夜、自宅でぼんやりと過ごしているとスマホが震えた。画面を見ると、悠くんからの着信だった。心臓がどくんと鳴る。けれど指は勝手に通話ボタンを押していた。


「少しだけ話したいんだけど、会えないかな」


 悠くんの声はいつもよりどこか優しい。いつかの強引な悠くんとは別人のようだ。


「……いいよ」


 私は小さな声で了承した。

 

 

 


 翌日の仕事を終えて、悠くんに指定された喫茶店に向かった。店に入ると、既に悠くんは窓際の席に座って私を待っていた。コーヒーカップを両手で包むように持ち、じっと外を眺めている。


「待たせてごめんね」


 私が近づいて声をかけると、悠くんは顔を上げてやわらかく微笑んだ。


「僕もいま来たところだから」


 私は悠くんの向かい側の席へ腰を下ろす。窓の外はもう暮れて、街灯が灯りはじめていた。


「ずっと謝りたかったんだ。あの時のこと」


 悠くんは視線を落としてゆっくりと続ける。


「きみを失うんじゃないかって不安だった。謝ったって許されることじゃないけれど、きみの気持ちを無視して傷つけて本当にごめん」


 あの日のキスを忘れたことは一度もない。熱くてざらついた舌先の感覚を、今も鮮明に思い出せる。好きな人とのはじめてのキスは、私の胸に苦い痛みを残していた。


 顔を上げると、店内のあたたかい照明が悠くんの顔を優しく照らしていた。あの時の強引な面影はもうどこにもなく、そこにあるのはただ懐かしい幼馴染の顔だった。


「ミナちゃんのことが好きなんだ」


 悠くんは私の目を見つめて、はっきりとそう言った。私がずっとほしかった言葉だった。胸が震えて涙が溢れる。嬉しかった。けれど、それを受け止めきれない自分がいることに気づいていた。


 悠くんは私の涙を見て、静かに微笑んだ。


「ミナちゃんはヤスさんを好きなんだね」


 悠くんの優しい声に、私は泣きながら頷いた。


 ヤスさんを好きだ。ヤスさんがくれたぬくもり、優しさ、甘い言葉。そのすべてが今も胸に残って、私の心をあたたかく照らしている。決して悠くんの代わりなんかじゃない。


 悠くんは静かに私の手を握った。その手は昔のように優しくあたたかい。


「悠くん、ずっと好きだったよ。ありがとう」


 私は震える声でそう言った。言葉にすると胸の奥に長く溜まっていた重いものが、するりと解けて抜け落ちていくような気がした。


「僕こそ、ありがとう」


 悠くんは笑った。少し寂しげで、でも穏やかな笑顔だった。


 私たちはしばらく黙って手を繋いだ後、どちらからともなくそっと離れた。


「これからも幼馴染でいてくれる?」


 私がそう聞くと、悠くんは力強く頷いた。


「もちろん。いつでも困った時は駆けつけるよ」


 悠くんの言葉に、私はようやく笑うことができた。涙で滲んだ視界の中で、悠くんの顔が優しくぼやける。私の初恋は静かに幕を閉じた。

14.二番目の恋

 

 

 その日のライブが終わり、僕たちはステージを降りて楽屋に戻った。汗で張り付いたシャツを脱ぎ捨てて、ソファに体を沈める。アドレナリンがまだ抜けきらない身体が重く疼いていた。


 ヤスさんは隣のソファに座ってぐったりとしていた。いつもなら早々に身支度を整えて帰っていくのに、今日は一言も喋らずにじっとしている。


 最近、ヤスさんの様子がおかしいのはわかっていた。ネタ合わせの時も打ち合わせの時も、どこか上の空で笑顔が少ない。はじめは仕事の疲れか何かだと思っていたけれど、どうやら違うみたいだ。


 僕が着替えを済ませてペットボトルの水を開けようとした時、ヤスさんが静かに口を開いた。


「ミナちゃんと別れた」


 僕は思わず手を止めた。ヤスさんの声は静かで、まるで他人事のように感情が乗っていない。


「……ヤスさんはそれでいいの?」


 僕は何と返すべきかわからず、絞り出すようにそう切り返す。ヤスさんは呆れたように小さく笑った。


「いいも何も、俺がフッたんだよ」

 
 ヤスさんは視線を落としたまま続けた。


「俺じゃ、ミナちゃんの王子様にはなれないからさ」


 ヤスさんは立ち上がると、ジャケットを脱いで無理やり鞄に押し込む。普段は誰よりも丁寧に衣装を扱う彼なのに。


「じゃ、おつかれ」


 ヤスさんは手早く着替えると、僕の返事を待たずに先に楽屋を出ていった。勢いよくドアが閉まる音が静かな楽屋に響く。僕は一人残されて、ペットボトルを握りしめたまま動けずにいた。


 嬉しいなんて思わなかった。


 ミナちゃんは今、どうしているんだろう。僕たちのせいでまた傷ついて、泣いているんだろうか。


 胸の奥に熱い何かが込み上げてくる。僕はスマホを手に取った。メッセージアプリを開いて、ミナちゃんの名前をタップする。震える指で通話ボタンを押した。

13.二番目の恋

 


 自宅でのオンラインの打ち合わせが終わったのは、二十三時を過ぎた頃だった。パソコンを閉じてヘッドセットを外す。背伸びをしてから、ポケットにしまっていたスマホを手に取った。通知がいくつか溜まっている。ほとんどが仕事関連か、グループチャットのくだらないやり取りだ。その中にミナちゃんからのメッセージがあった。


「いま吉祥寺に来ています。少しでいいので会えませんか?」


 そのメッセージに俺は息を呑む。送信時刻は三時間ほど前だ。


 ミナちゃんが何の約束もしていないのにこんな遅くに来るなんて、はじめてのことだった。ミナちゃんはいつも遠慮がちだ。デートに誘うのだってほとんど俺ばかりだったのに。


 今も俺を待っているのだろうか。俺はスマホを握りしめて立ち上がり、ミナちゃんへ電話をかける。呼び出し音が三回鳴った後、ミナちゃんの声が聞こえた。


「いまどこにいるの?」


 ミナちゃんはまだ吉祥寺の駅前で俺を待っているらしかった。電話を切ると、俺はキャップを深く被って部屋を飛び出した。


 駅までの道のりを、人混みを掻き分けながら走る。反射するネオンが眩しい。改札前にミナちゃんはぽつんと立っていた。目が合った瞬間、ミナちゃんの顔がぱっと明るくなる。


 ミナちゃんと面と向かって会うのはずいぶん久しぶりのことだった。最後に電話をしたあの日以降、俺はミナちゃんとろくに話せずにいた。


 ミナちゃんを本当に好きだ。でも、ミナちゃんのそばにいると、この想いは叶わないとありありとわからせられる。


 代わりでいいと思ってはじめた交際だった。でも、いざ付き合ってみると耐えられなくなった。


 会いたかったと、ミナちゃんは頬を染めながらそう言った。俺をまっすぐに見つめるミナちゃんの瞳を見つめ返すことができず、俺は目を逸らしてうつむく。


「もう帰ろう」


 俺はそれだけ言うと、ミナちゃんへ背を向けて改札へ歩き出した。黙ったまま歩いていると、ミナちゃんがぱしんと俺の手を掴んだ。


「私、帰りたくないです」


 俺が足を止めて振り返ると、ミナちゃんは真っ赤な顔でそう言い切った。


 ミナちゃんの言葉を聞いて、胸の中にどろどろとした感情が湧き上がる。今衝動のままミナちゃんを抱き寄せたとして、ミナちゃんの心には結局なかるてぃんがいるのだと思うとやるせなかった。


「……ミナちゃんはそういうことしない方がいいよ」


 俺は空いた手でゆっくりとミナちゃんの指を引き剥がす。


「俺たち、別れようか」


 気づいたらそう口にしていた。


 本当はそんなこと言うつもりじゃなかった。ミナちゃん、久しぶりだね。元気にしてた?俺も会いたかったよ。好きだよ。俺だけを見てよ。伝えたいことは山ほどあるのに、何一つ言葉にすることはできない。


「電車乗ろう。終電なくなる」


 俺はミナちゃんの表情をまともに見ることのできないまま、ホームへ向かった。ミナちゃんは抵抗せず、ただ黙って俺についてきた。電車が来て、俺は半ば強引にミナちゃんを乗せた。


「ばいばい」


 ドアが閉まる。俺は笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。


 電車の走る音が遠ざかっていく。

12.二番目の恋

 

 

 最近、ヤスさんからの連絡が減っていた。はじめはきっと仕事が忙しいのだと思っていた。ライブや収録で疲れているのだろう。無理に会おうとせず余裕ができるのを待とうと考えて、連絡を控えていた。けれど、それにしても様子がおかしい。この数週間、メッセージを送ってもそっけない返事が来るばかりだ。


 心当たりがないわけじゃない。あの日、ヤスさんとした最後の電話を思い出す。


 父の事故の後、悠くんが病院に駆けつけて私を慰めてくれたことを、私はヤスさんに伝えなかった。やましい気持ちなんてなかったけれど、言葉にしたらヤスさんがどう思うか不安だった。


 きっとヤスさんを傷つけた。


 会えない時間が募るほど、ヤスさんに会いたかった。ちゃんと顔を見て謝りたい。後ろめたさから隠し事をしたことを正直に話して向き合いたい。


 その週末の夜、仕事終わりに吉祥寺行きの電車に乗った。ヤスさんの自宅の正確な場所は知らないけれど、最寄り駅が吉祥寺だということだけは聞いていた。


 吉祥寺駅に着いて、スマホを取り出してメッセージを送る。


「いま吉祥寺に来ています。少しでいいので会えませんか?」


 勇気を出して送信ボタンを押す。すぐには既読はつかない。

 

 約束なんてしていない。会えるかどうかもわからない。それでも、いてもたってもいられなかった。

 

 終電まで待ってみよう。もし終電を逃してもタクシーで帰れればいいし、24時間営業のカフェやファミレスで朝まで過ごしてもいい。どうにかなる。


 週末ということもあり、吉祥寺の駅前は人で溢れていた。交差点を渡る人の波、ネオンが反射するガラス張りのビル、通り過ぎる笑い声や呼び込みの声。みんな誰かと一緒にいて、目的があって歩いている。私はその中心でぽつんと立ち尽くしていた。


 しばらくしてから時計を見ると、到着してからもう三時間近く経っていた。足が疲れて、どこか座る場所はないかと周りを見渡した時、ポケットの中でスマホが震えた。画面はヤスさんからの着信を知らせている。私は慌てて通話ボタンを押した。


「もしもし、ミナです」

「いまどこにいるの?」


 ヤスさんの声はいつもより低く、怒っているようにも聞こえた。


「南口の改札を出たすぐのところです」

「すぐ行くから、そこから動かないで」


 ヤスさんはそれだけ言うと電話を切った。


 周りの喧騒が遠くに聞こえる。ネオンの光が目に痛い。私はヤスさんに言われた通り、その場で祈るように息を詰めてヤスさんを待つ。


 しばらくすると、人混みの向こうに見慣れたシルエットを見つけた。ヤスさんはスウェットにキャップをかぶったカジュアルな服装をしていた。私と目が合うと小さくため息をつく。


「……ミナちゃんがこんなわがまま言うなんてめずらしいね」


 ヤスさんの声はからかうようで、でもどこか疲れた響きがあった。


「ごめんなさい、どうしても会いたくて……」


 私は慌てて頭を下げた。ヤスさんは困ったように笑う。


「気づくのが遅くなってごめんね。でもこんな夜に女の子一人でいたらだめだよ。送るからもう帰ろう」


 ヤスさんはそう言うと、私に背を向けて改札へ向かって歩き出す。その歩調は速く、私を待つ気はないみたいだった。いつもなら「俺も会いたかったよ」って言って、私の手を握ってくれるのに、今日は触れてもくれない。その背中が遠ざかっていくのを見て、胸がざわついた。


「ま、待ってください!」


 私は駆け寄ってヤスさんの手を掴んだ。ヤスさんは足を止めて振り返る。その表情は変わらず冷めている。


「私、帰りたくないです」


 私は精一杯に気持ちを伝える。取り繕う余裕もなく、声は震えていた。


「……それ、どういう意味かわかって言ってる?」


 ヤスさんの瞳はまっすぐ私を捉えていて、試すような色があった。少し怖くなったけれど、いまこの手を離してはいけないと思った。


「わかってます。私、本気です」


 ヤスさんへの想いは、もう生半可なものではない。ヤスさんが私を大切にしてくれたように、私もヤスさんを大切に思っている。

 

 ヤスさんの瞳をまっすぐに見つめ返す。けれどヤスさんは困ったように笑うばかりだった。その顔は苦しいようにも切ないようにも見える。


「……ミナちゃんはそういうことしない方がいいよ」


 ヤスさんはそう言うと、空いたもう片方の手でゆっくりと私の指を引き剥がした。その指先のぬくもりが離れる瞬間、寂しさに胸が痛んだ。


「俺たち、別れようか」


 ヤスさんは泣きそうな顔でそう言った。ヤスさんの言葉が信じられくて、私はただその場に立ち尽くした。