1.
海沿いの国道を北へ、別府へ向かって進路を取る。中古のバイクだが、十分走る。陽射しが強いので、頬に感じる12月の潮風が気持ちが良かった。
朝から運転を続けて、太陽が高く登ったところで、腹が減っていることに気づく。昼食を取ろうと、通りかかった道の駅でエンジンを止めた。
「道の駅くにさき」は、人はまばらで、閑散としていた。簡素な休憩所に、野菜の直売所と定食屋が併設されている。
定食屋では、焼き魚定食を注文した。10分も待たずに食事は配膳された。しっかり焼き目のついた太刀魚は結構おいしい。
定食を食べ終わると、このあとのことにボンヤリと思いを巡らせた。孤独な旅だったが、気分転換くらいにはなった。このまま別府港に向かい、フェリーで大阪へ帰るつもりだ。
「お兄さん、暇なん?」
カバンから地図を取り出して進路を確認していたところに、急に声をかけられたので驚いた。
顔を上げると、目の前の席には小柄な少年が座っていた。まだ高校生くらいだろうか。大きな碧色の瞳が印象的だった。
相席するほど混雑したのかと慌てて店内を見渡したが、店内には俺と少年の2人しかいなかった。少年は薄桃色の口角をキュッと上げて続ける。
「お兄さん、大学生?旅行?大分には何しに来たん?」
少年があまりにも自然に質問してくるので、俺はよくわからないまま答えてしまう。
「大学生。大阪から1人で、バイクで。なんていうか、自分探しの旅っていうか……。」
俺が戸惑いながらそう返すと、少年はクスクスと笑った。
「お兄さん、真面目なんやね」
確かに俺の答え方は正直すぎたかもしれなかった。しかし、そうさせてしまう不思議な魅力のある少年だった。
「君は誰?地元の人?」
俺が質問を返すと、少年は俺を覗き込むように見上げてニッコリ笑った。
「糸永壱郎。お兄さん、泊まるとこ決まってないならうち泊まらん?」
「えっ」
「うち、旅館なんよ。温泉でのんびりしよや、お魚のお造りもあるけえ」
「あ、そういう……」
糸永くんは自分の家のことを嬉々として語った。「癒しの宿糸永」は由緒正しい老舗旅館なのだという。高校が冬休みになったので、手伝いをしているそうだ。屋上の露天風呂、美しい別府湾、新鮮な海の幸とか。キャッチセールスとはいえ、素晴らしい旅館だと思っていることは確からしかった。
俺は財布の中身を思い出す。大阪に帰る前に少し贅沢するくらいの余裕はあるはずだ。孤独な旅の途中で、こうして糸永くんに出会ったのも何かの縁かもしれないと、気分が高揚しているのもある。
「行きたいな、糸永くんのうち」
俺がそうお願いすると、糸永くんはいたずらっぽく笑った。
「1名様ご案内です」
2.
旅館までの道中を、糸永くんが案内してくれるというので、従うことにした。
別府の街にはあちらこちらに湯けむりが立っており、温泉文化が生活に根付いているのを感じられる。
市内には特徴的な源泉が点在しており、それらを観光することを「地獄巡り」と呼ぶのだという。
糸永くんに案内されるまま、それらを歩いて回った。最後に来た「海地獄」と呼ばれる源泉は、コバルトブルーの色をした大きな池状の源泉だった。
「綺麗だね」
歩き疲れた俺たちは併設された喫茶店で休憩をとった。池全体を眺めることができる、眺望の優れたカウンター席に並んで座る。
「昔は心中目的に入水する人も多かったらしいわ」
糸永くんはなんでもないみたいに言う。俺は想像してゾッとしてしまう。水面はぶくぶくと沸騰しており、白い湯気が湧き立っている。身を焦がすほどの恋というよりは、溶けるという方がそれらしいか。確かにコバルトブルーの美しさが人を狂わせるのかもしれなかった。
喫茶店では2人ともプリンを注文した。源泉から湧き出る蒸気を利用して作られたプリンは、この店の名物なのだという。素朴な味わいでおいしかった。
「プリン、おいしいね」
「他にも喫茶店はあるけど、ここのが1番おいしいんよ」
大学でもアルバイト先でも友人が多い方ではないので、誰かと食事をすることも、何気ない会話をすることも久しぶりだった。
糸永くんと話すのは楽しかった。何も見つからない旅だったけど、糸永くんに出会えただけでも、来た甲斐があったのかもしれないと思うほどだった。
「楽しいな」
思わず口にする。言ってからハッとした。糸永くんの方を見ると、糸永くんはぽかんとしている。そのあと、すぐ笑った。
「僕もお兄さんと話せて楽しいよ。こういうふうに話せる友達あんまりおらんけん」
俺は呆気にとられてしまう。
「そうなの?意外」
「人と足並み合わせるの苦手やけん。でもお兄さんといるのは楽しいよ」
糸永くんの唇が弧を描く。例え俺に気を使っただけだとしても嬉しかった。俺は照れてわざと話題をずらした。
「別府はいいところだね」
糸永くんは笑った。
「僕もこの町が大好きなんよ」
糸永くんの笑顔が眩しくて、俺は赤面した。
3.
観光を済ませ、「癒しの宿糸永」に着いたのは夕方を過ぎた頃だった。宿は数年前にリフォームをして随分今風になったらしかった。ずいぶん立派な宿だった。
受付をすませると、従業員が丁寧な接客で部屋まで案内してくれた。俺と糸永くんはその後ろをついていく。糸永くんが従業員に「坊ちゃん」と呼ばれているのを聞いて、なんだか身構えた。
通された部屋は1人用のこぢんまりとした和室だったが、窓辺から別府湾を望む素晴らしい眺望だった。
「じゃあ僕は別のお客さんのオモテナシがあるけえ、離れるけどゆっくりしてってな」
糸永くんはそう言って部屋を後にした。手を振って別れた。
しばらく窓辺から別府湾の水面を眺めている。たゆたう波を見つめていると、なんだか眠くなってくる。
大阪港からフェリーに乗り、鹿児島を経てここまで来た。20歳で思い立った、いわゆる「自分探しの旅」だった。
地元を出て大阪の大学へ進学し、およそ1年半が経過した。はじめは新生活にそれなりの希望を抱いていたものだが、もともと人見知りな性格のため十分な交友関係を築けず、充実とは言い難い日々を過ごしていた。
そんな生活に何かしらの変化を求めて、「自分の探しの旅」に出ようと決めたのがこの前の春のことだった。
そう決めてからは、コンビニと居酒屋のアルバイトを掛け持ちしてがむしゃらに働いた。自動車学校に通い、中古のバイクを購入した。残った貯金を旅費に充てた。
大阪から乗ったフェリーでは慣れない揺れに参ってしまい、移動中はめっきり寝込んだ。鹿児島に降りた後の行き先は未定だったが、帰路は波の穏やかな瀬戸内海を経由する航路にしようと考え、宮崎を経由して別府港へ向かうことに決めたのだった。
鹿児島に降りた後は、カプセルホテルやインターネットカフェに泊まりながら、観光地を見て回ったり、名産品を食べたり、時には海を見てぼーっとしたりして過ごした。
結論から言うと、「自分探しの旅」は失敗だった。ほとんど誰と話すわけでもなく、孤独な自己の内面に変化が起こるはずもなかった。
だから、この旅で糸永くんに出会えたことは、僕にとっての幸福だった。こんなキレイな男の子と、友人になれた。明日、どこかに誘ったら一緒に来てくれるだろうか。長期休みがあれば僕がまた別府へ遊びに来たっていいし、糸永くんが大阪に遊びに来てくれたらどこでも案内してあげるのに。
そんなことを考えているうちに、眠ってしまっていたらしい。夕食を知らせる従業員の声で目を覚ました。
従業員はてきぱきと部屋食の配膳をすませる。座卓に並ぶ料理は、目にも鮮やかだ。
夕食は、糸永くんが自慢していた通り、お刺身も茶碗蒸しも煮魚も天ぷらも、すべておいしかった。あまり大食いの方ではないが、ぺろりと食べ切れた。
食後に適当につけたテレビでは、知らない地元の番組がやっている。しばらくそれを眺めた後は、支度を整えて、屋上の露天風呂へ向かった。
露天風呂へ向かう長い廊下は、やけに騒がしい。どうも、宴会場の横を通っているらしい。中年男性の下品な声が、廊下まで漏れている。ずいぶん酔っているらしかった。あんまりうるさいので、ついそちらの方を見てしまう。座敷の襖がほんの少しだけ空いていて、中の様子がうかがえる。大勢の中心にいるのは。
「今のは……」
それと目があって、息を飲んだ。
4.
冬の露天は、さすがに寒い。この気温だからか、ほかに客はいなかった。夜空は静かに澄んでいて、ぽっかりと月が浮かんでいる。
簡単に身体だけ流して、すぐに湯に入った。身体は温まるはずだが、先ほど見たものが信じられなくて、四肢は凍っているように冷たかった。
どれほどそうしていただろう。しばらくして、白い湯けむりの向こうに人影が見えた。こちらに向かってくると、その輪郭がハッキリしてきて、それが裸の糸永くんだということがわかる。
のぼせて見ている夢ではなかった。糸永くんはちゃぷんとお湯に浸かると、そのまま俺の隣まできて、俺の腕を掴む。ぐいっと僕を引き寄せて、僕の胸の中におさまる。
「お兄さん、さっき僕のこと見とったよね」
糸永くんは俺の耳元でそう囁く。
先ほど、襖の奥に見つけた、碧い瞳を思い出す。やはり先ほど見たものは、複数の中年男性に蹂躙されていたあの人影は、糸永くんで間違いなかったのだ。
「お兄さんも僕としたかったんやろ」
糸永くんの細い指先が俺の身体をなぞる。
「違う!」
「違わんよ」
口では否定しても、情けないことに糸永くんに触られた身体は反応してしまう。糸永くんは、呆れたみたいな、わからないみたいな顔で俺を覗き込む。糸永くんの碧い瞳に俺が映っている。
「きみのことが好きなんだ……」
裸の糸永くんを、抱きしめることも、拒否することもできないまま、俺は悔しくて泣いてしまう。糸永くんはおかしくてしょうがないみたいに笑った。
「今日会ったばっかりなのに、おかしなこと言うんやね」
「家族にやらされてるんなら俺が止めさせる」
「僕が好きでやってるだけっちゃ」
「嘘だよ」
「嘘じゃないよ。僕も気持ち良い、お兄さんも気持ち良い、それじゃダメなん?」
「俺は君を助けたい」
俺が泣き喚いているのとは真逆に、糸永くんはずっと冷静だった。
「どうやって?」
糸永くんはつまらないみたいに言い放った。俺を掴んでいた手を離して、背を向ける。離れていった温度が寂しくて、今度は俺が糸永くんの腕を掴んだ。
「俺は……きみが……」
俺はその背中に向かって語りかける。でも、その後には何も続けられない。
「お兄さんはまたここに来るよ。きっと」
糸永くんは振り返ってそれだけ呟くと、俺の手を鬱陶しいみたいに振り払って、するりと離れていった。
俺は何もできず、ただその場に蹲っていた。
5.
その後、どうやって部屋に戻ったのかはよく覚えていない。とにかく、何も考えられなくて、泥のように眠った。
起床した後も全身が怠くて重かった。朝食の味はわからなかった。すぐにチェックアウトを済ませた。
予定通り、別府港から大阪行きのフェリーに乗った。船が港を離れていく。
曇天の空の下で糸永くんのことを考えた。
『お兄さんはまたここに来るよ。きっと』
糸永くんが囁いたあの言葉を思い出す。呪いのように、耳について離れない。
糸永くんは、あんなことをずっと続けるんだろうか。どうしたら彼を救うことができるんだろうか。俺はまたあそこに行くのだろうか。
頭の中をグルグル回って、瀬戸内海の凪いだ水面に嘔吐した。