神様

 


1

 

別府クロス学院は、カトリック系の男子高校だ。

今朝降ったばかりの小雨が、桜の花びらを濡らしている。校門から校舎へ続く真っ白い桜並木は、4月上旬の今しか見られない。

つきあたりの校舎を右に曲がると、大きなお聖堂が立っている。毎日、朝礼より1時間早くここへ来て、お祈りを捧げるのが僕の日課だ。

薄暗くて静かな廊下の先にある、重厚な飾り扉を開ける。祭壇の中央にはイエズス像が立ち、その横には美しいステンドグラスと、微笑みを称えた聖母像が並んでいる。床には通路を挟んで左右に木製の長椅子が列を作る。

いつもの景色と違ったのは、その通路の中心に、マリア様が立っていたことだ。ステンドグラスから差し込む淡い朝日を浴びて、イエズス像を見つめている。やがてこちらの視線に気づき、振り返って僕を見ると微笑んだ。

よく見れば、そのマリア様は自分と同じ制服を着ていた。小柄な体躯に、整った顔立ちをしている。ウェリントンメガネの奥の碧い瞳が美しい。


「……きみは、新入生?」


彼のような人を、もしひとめでも見ていたら覚えていないはずがなかった。僕の不躾な質問にも、彼は厭わずに答えた。


「そうです。糸永壱郎」

 

喋っているところを見ると、当たり前だけれど、普通の少年だ。着ている制服もビシッとノリがついていて、新入生らしいあどけなさがある。


「学校の中をいろいろ見てみたくて、早く登校したんです。そしたら急な雨に降られてしまって、近くにあったこの建物に。勝手に入ったらまずかったですかね?」


糸永くんは心配そうに眉を下げた。よく見ると髪や肩のあたりが、少しだけ濡れている。


「ここは誰にでも開かれている場所だから、大丈夫だよ。困っている人にこそ、来てほしい場所だから」


それを聞いた糸永くんはホッとした表情になった。


「復活祭やクリスマスの時にはここでミサが行われるんだ。糸永くんも、興味があったら来るといいよ」


それから僕は、不思議と饒舌になってしまう。学校行事のこと、授業のことや、僕が所属している聖書研究会の活動のこと。彼によく思われたくて、必死なのかもしれなかった。

しばらくしてから、糸永くんは窓の外と腕時計を交互に見てからつぶやいた。


「そろそろ行かないと。雨も止んだみたいだし、1時間目がはじまっちゃう」


糸永くんはそう言うと、扉の方へ向かった。僕はなぜだか別れ難くて、その腕を掴んで引き留めた。


「また会いたい。僕は毎日、朝と放課後、ここにいるから」

 

糸永くんはポカンとしていた。それを見て、僕はまだ自己紹介すらしていないことに気がついた。慌てて掴んだ腕を離して、弁明する。


「ごめん、僕は……」

「知ってるよ。翠くん。入学式で喋ってた、生徒会長さん」


糸永くんはイタズラに微笑んだ後、丁寧に頭を下げてお聖堂を出て行った。

置いていかれた僕は、しばらくそのままそこにいて、予鈴でハッと目が覚めたようにしてお聖堂を出た。


朝のお祈りをしなかったのは、入学してからこれがはじめてだった。

 

 

 

 

 

 

2

 

別府クロス学院には聖書の授業や季節のミサなどの特徴的な行事はあるが、基本的に生徒の信仰は自由であり、実際のところカトリック教徒は4割程度である。

その中でも僕は熱心な方で、授業だけでなく、週1回の聖書研究会や関連施設への慰問などのボランティア活動にも参加していた。

糸永くんにとっては僕のそういうところがめずらしく、面白いみたいだった。糸永くんはカトリックを信仰しているわけではなかったけれど、僕がいる時間にお聖堂へやって来ては、授業で習った聖書の内容についてよく質問をした。僕はそのひとつひとつについて、丁寧に答えた。

聖書研究会や生徒会でも下級生の指導はしているが、こんなふうに慕われるのははじめてだったので、純粋に嬉しかった。


「翠くんは、どうして神様を信じているの?」


糸永くんはいつものようにお聖堂へやってきて、けれどいつもとは少し違う質問をした。いつもはたいてい、ルカとかマタイの福音書のこの一節はどういう意味なのかとかだったから。


「物心がつく前から家族と一緒に教会に来ていたから、自然とかな。神様はいつだって僕のことを受け入れてくれるから」


僕にとって生活することは、神様とともにあることだった。


「高校を卒業したら、修道院に入るんだ。小さい時から、決めているんだよ」


幼いうちから修道院に入ることも考えたけれども、両親にカトリックの学校でしっかりと学ぶよう言われて別府クロス学院へ入学した。

入学してみて、良かったと思う。カトリックへの教養が身についただけではなく、信頼する神父様や、聖書研究会の仲間にも出会えたから。


「なんか、わかる気がする。いいね、そういうの」


糸永くんはニコニコしながら僕の話を聞いている。僕は少し恥ずかしくて、話題を逸らした。


「糸永くんは、どんなふうに育ったの?」


僕が聞くと、糸永くんは家族のこと、家業のこと、好きなもののことを教えてくれた。小さい時から信じられるものに囲まれて育ったところは、僕たちは似ているのかもしれなかった。どれも他愛もない話だったけれど、糸永くんが口にする言葉は、不思議とすべて新鮮で愛しいことのように感じた。

 

 

 

 

 

 

3


出会ってから数ヶ月が過ぎて、僕と糸永くんは、少しずつ、けれど確実に親しくなっていた。


学年の違う僕たちは校舎で偶然会うということはあまりなく、糸永くんが朝か放課後にお聖堂へ来ることがほとんどだった。たまには約束をして昼休みに外で食事をすることもあった。

僕は糸永くんを誰にも見せたくないような気持ちがあって自分のクラスに彼を呼ばなかったし、それ以上に誰かが糸永くんといるところを見たくないような気持ちがあって彼のクラスにも行かなかった。


ある日の放課後、僕は1人でお聖堂にいた。

昼まではからりとした夏空だったけれど、ステンドグラスから見える雲行きは既に怪しくなっていた。

予想通り、すぐに雨が降り出した。雨は次第に勢いを増し、ざあざあと降り注いだ。雨具を持ち合わせていなかったが、激しい雨ならすぐに止むだろうと、雨の勢いがおさまるのを待った。

すると、勢いよく音を立ててお聖堂の扉が開いた。そこには今の夕立でびしょ濡れになった糸永くんが息を切らして立っていた。


「タイミングが悪かったみたい」

 

校舎からここへ来るたった数秒の間に、ぬれねずみになってしまったらしかった。

僕がブレザーのポケットからハンカチを取り出して彼の髪や頬を拭うと、糸永くんは撫でられた子猫のように目を細めた。

ハンカチはすぐに水を吸ってしまい、ずぶぬれになった彼にとっては正直あまり意味をなさなかった。


「寒い……」


糸永くんのか細い声にハッとしてその表情を見ると、唇は紫色に変化していた。夏とは言え、こんなふうに濡れてしまったら当然だった。

僕は慌てて、木製の長椅子に糸永くんを座らせる。水を吸った夏服のシャツに透き通る肌をできるだけ見ないようにして、自分のバッグから体育のジャージを取り出し、糸永くんの肩にかけた。


「雨が止むまで、少しこうしていよう」


それだけ言って、僕も糸永くんの隣に座った。

自分の中に今までなかった感情が生まれたことに気がついていた。たったこれだけのことで制御できなくなるほどの動悸に混乱した。

糸永くんはそんな僕の気持ちには何も気づいてないみたいに、僕の肩にもたれてうたた寝をしだした。触れたところは濡れて冷たいはずなのに、火傷をしたように熱くて痛かった。

僕は糸永くんを起こさず、お聖堂に反響する雨の音に耳を澄ませ、しばらくそばに寄り添っていた。

 

 

 

 

 

 

4

 

自分自身の感情に戸惑った僕は、その夜、告解室に来ていた。僕の急な申し出にも関わらず、神父様は快く時間を作ってくださった。


「あなたの罪を告白してください」


薄暗くしんと静まった告解室で、僕はひざまづく。神父様のお声かけにうまく答えられず、僕はしばらく考えた。


「……まだ、自分でも整理がついていないのです」


ひとつひとつ、言葉を選んで話す。神父様は黙って聞いている。

自分以外の誰かを求める、この気持ちの行き着く先はどこなのだろう。生涯を神に捧げる覚悟で生きてきたのに、今では、授業中も、お祈りをしているときでさえ、彼のことばかりを考えてしまう。彼の美しく碧い瞳を。しなやかに熱を持つ指先を。濡れた柔肌を。


「透明に見えていた世界が、今では赤と黒になったような……」


そう、彼と出会ってから、僕の何もかもが変わってしまった。足元が崩れてしまったかのような。


「もう彼と会うのはやめた方がいい。あなたのためにも、彼のためにも」


だから、神父様の言うことの意味はよくわかった。神父様の言うことに、間違いはなかった。


「神に立ち返り、罪を許された人は幸せです。主はいつでもあなたを見守っておいでですよ」


神父様は続けてそう諭した。


「ありがとうございます……」


自然と、涙が溢れた。あとからあとからこぼれて止まらなかった。僕はひざまづいた姿勢のまま、ただずっと泣いていた。


糸永くんが、聖職者としての僕に心を許してくれていることを知っていた。糸永くんは僕と恋人になることなど決して望んではいなかった。それなのに、僕にとっての糸永くんは、神様より神様らしい存在になってしまっていた。どうしてこんなふうになってしまったかわからなかった。ただ、情けなかった。

 

 

 

 

 

 

5


僕は僕の感情をできるだけ隠した。しかし、神父様がお気づきになったように、きっと、伝わってしまうものなのだろう。糸永くんはお聖堂へ来なくなった。

糸永くんに会いたかった。でも、会ってしまったら自分を制御できる自信もなかった。


僕は今までよりさらに熱心にお聖堂へ通うようになった。祭壇の前に跪き、お祈りを捧げる。


「主よ。私の罪をお許しください。私を誘惑に陥らせず、悪からお救いください」


幼い頃から慣れ親しんだお祈りの言葉も、今はただ上滑りするだけで、意味を持たない。それでも、何度も繰り返す。


「私の罪をお許しください。私を誘惑に陥らせず、悪からお救いください」


そうして祈るだけの日々を、くる日もくる日も繰り返した。次第に食も眠りも浅くなり、痩せ細って、両親や神父様に心配されても、止められなかった。今の僕にできることはこれだけだった。


ある日の放課後、いつものようにお聖堂へ向かった。静かな廊下を歩き、飾り扉を開けると、出会ったあの日のように、そこに、糸永くんが立っていた。


「糸永くん……」


驚きと喜びと困惑が混ざり合った感情を抑えきれず、僕は糸永くんのもとに駆けつけた。僕は糸永くんの腕にしがみついて、そのままひざまづいた。


「会えない間、ずっと、お祈りしている時だって、きみのことばかり考えてしまって……」


抗うことのできない波にさらわれたように、僕はわんわん泣き出してしまう。糸永くんはただ静かに微笑んでいる。


「もう会うべきじゃないと、神父様とも約束したのに……」


僕は糸永くんの足元にすがりつく。糸永くんはそれを止めるでもなく、受け入れようともせず、ただ、そこに立っていた。僕が黙ると、やがて、ぽつりと呟いた。


「あなたは、僕といない方がいいよ」


糸永くんの声に僕は顔を上げた。碧色の瞳は変わらず綺麗に光っている。


「どうしてそんなことを言うの」


僕が責めると、糸永くんは、悲しそうに笑った。何も答えなかった。答える必要がないみたいだった。


「僕は、きみのことが……」


僕が立ち上がって距離を詰めると、糸永くんはピッと指を僕の唇の前に突き出して、それを制止した。それからまっすぐ僕を見て、首を振った。


「だめだよ。マリア様がみてるから……」


糸永くんの後ろでは、ステンドグラスから差し込む夕日を浴びて、慈悲深い微笑みをたたえたマリア像が、僕を見下ろしていた。


「だから、これが最後。さよなら」


糸永くんはそれだけ言うと僕を置いて、お聖堂の外へ消えて行った。一度も振り返ることはなかった。

残された僕は、マリア様の足元で、ただ、透明な涙を流した。

 

 

 

 

 


6

 

あれからも、僕はこのお聖堂でお祈りを続けている。朝と晩、できるだけ、神様のことだけを考えながら、赤と黒の世界で、1人で。