光ってみえるもの

 

 

 

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中学校を卒業したその日に、旅館を燃やした。雲ひとつない月の綺麗な夜だった。私は少し離れた場所から、ずっと燃える旅館を見つめていた。暗闇に浮かぶ炎が、頬に感じる熱が、私に生きているという実感をもたらした。美しいと思った。

 

 

 

 


1


はじめは、自分が何をされているかなんてわからなかった。


物心つく前から、旅館の手伝いをしていた。誰に命令されたわけではなかったと思う。3つ年上の壱郎お兄ちゃん(兄といっても従兄なのだが)が働いているところを見ていたから、そうするのが自然だったのだ。


家の手伝いをすれば、お父さんとお母さんに褒められた。学校でも、「ひかりちゃんは、おうちのお手伝いをしてえらいね」って、先生に褒められた。褒められれば、嬉しかった。嬉しかったから、続けた。


はじめてお客さんの前で裸になったのは9歳の時だった。


何が起こったのかよくわからなかった。全部が終わった後、お父さんもお母さんも、叔父さんも叔母さんもおじいちゃんもおばあちゃんも、偉かったねって褒めてくれた。壱郎お兄ちゃんだけが、何も言わなかった。何も言わずに、ただ私のことを抱きしめてくれた。


よく考えれば、ずっとおかしかった。夏休みは、ろくに友だちと遊んだことはない。部活動だって、させてもらえなかった。放課後は帰ってきて、家の手伝い。休日も。宴会の片付け、洗い物、スーパーへのおつかい。入学式だって、三者面談だって、授業参観だって、運動会だって、インフルエンザで倒れたって、全部全部全部全部。


家族のことは、好きだった。けど、どんどん、歪んできた。だんだん、自分の家が、みんなと違うことがわかる。ふつうじゃないことがわかる。自分の家がおかしいとを認めるのは、私にとってすごく勇気がいることだった。


お客さんにひどくされた時なんかは、死にたくなる。そういう時は壱郎お兄ちゃんがそばにきて、私のことをぎゅっとしてくれた。その瞬間が、私は1番幸せだった。


私の気持ちをわかってくれるのは、壱郎お兄ちゃんだけだった。壱郎お兄ちゃんだけが、私と同じだった。

 

 


今でも覚えている。私が12歳の頃の、月が綺麗な秋の夜だった。


お兄ちゃんと私は「お手伝い」が終わった後、寝室に戻って寄り添って窓から月を見上げていた。疲れていたけど、不思議と目は冴えていた。


どれほど月を見ていただろうか。しばらくしてから、お兄ちゃんが呟いた。


「ひかりちゃんが中学校を卒業したら、この旅館を燃やそう」


私は驚いてお兄ちゃんの方へ振り向く。お兄ちゃんはまっすぐ夜空を見上げている。お兄ちゃんの緑色の瞳に丸い月がぽっかり輝いている。


「そんなこと、できるの」


私は、確かめるみたいに聞いた。お兄ちゃんは私の方へ向き直って、力強く言い切った。


「できるよ。僕たちなら」


世界が急に、輝いたみたいだった。お兄ちゃんの言葉に、私は生まれ変わったような思いになった。


「約束だよ」


私たちはどちらからともなく、指切りをした。小指から伝わるお兄ちゃんの温度だけが、今の私に信じられるものだった。

 

 

 

 

 

2


私は中学生になった。


私とお兄ちゃんの「お手伝い」は変わらず続いた。


私たちはあれ以降、あの「約束」について話すことはなかった。ただ、あの「約束」は、私にとってほとんど唯一の心の拠り所となっていた。


私は少しずつ計画の準備を始めた。とはいっても、そこまで大掛かりな準備は必要なかった。放火による建物火災は、ライター1つあれば、いつだってできることだった。


それでも、より燃えやすくするために、なにかできることはないかと、放課後や休日は図書館でキャンプの本を読むなどして過ごした。そうしている時間は、心が落ち着いた。


バレないように完全犯罪を成し遂げようなんて気持ちは、はじめからなかった。失うものなんてないし、全部燃やせれば、そのあとのことはどうでもよかった。


つらい夜は月を見て、「約束」に想いを馳せた。ほとんど私の生きる意味だった。

 

 

 

 

 

3


お兄ちゃんのバイクの後ろに乗って、ドライブに出かける。会わせたい人がいるからと、誘われたのだ。お兄ちゃんとこんなふうに出かけるのは、はじめてだった。


30分ほど走ってたどり着いたファミリーレストランには、お兄ちゃんの友だちがいた。お兄ちゃんが誰かと仲良くしているところはあまり見たことがなかったので、驚いた。好きなものが同じで仲良くなったのだと教えてくれた。


古賀と梅崎と緒方は、みんなちょっとバカだけど、優しくていい奴だった。3人とも、お兄ちゃんのこと私のこと、うちのこと、知ってるのか知らないのかはわからないけど、みんな、いいやつだった。


友だちといる時のお兄ちゃんって、こんなふうに笑うんだな。なんだかちょっと知らない人みたいで、緊張した。私はしばらく借りてきた猫みたいに、お兄ちゃんの隣で大人しくしていた。


「ひかりちゃんは、いっちゃんのことが大好きなんだね」


お兄ちゃんにくっついてる私を見て、古賀はそう笑いかけた。私はなんだが見透かされたようで恥ずかしくて、黙って俯いてしまった。


それからも誘われて、何度かお兄ちゃんたちの集まりに行った。私もだんだん打ち解けてきて、3人と話せるようになってきた。


特に古賀は、私に優しかった。弟妹なんていないくせに、私のことを妹みたいだと言ってかわいがった。私はそれが、はじめは怖かったけど、古賀があんまり優しいので、だんだん満更ではなかった。


だから、私は油断してしまったのだ。ある日、たまたまお兄ちゃんたちが席を外したタイミングで、古賀にだけ、言ってしまった。私の夢を。


「そんなこと、だめだよ」


古賀は止めた。


古賀ならわかってくれるかもって、信じた私がバカだった。古賀は、たぶん、悪くない。私が、私の家が、異常すぎるだけだ。でも、私の大切な夢を否定されたことが、悲しかった。


それから私は、お兄ちゃんと古賀たちの集まりには行かなくなった。


誰にも、私の夢については話さなかった。私だけの宝物みたいに、胸の中でずっと大切にしていた。

 

 

 

 


4


3月9日、からりと晴れた春の日だった。どれほどか待ち侘びていた、中学校の卒業式その日だった。


朝起きてから、登校して、卒業式の間中も、私はずっとドキドキしていた。校長先生の言葉も、校歌斉唱も、卒業証書をもらう瞬間のことも、何にも覚えてない。


帰ったら、燃やす。帰ったら、燃やす。帰ったら、燃やす。これで、全部終わる。


決行は、誰にも邪魔されない、夜がいい。幸い今日は天気も良い。月齢も、ちょうど満月だ。


学校から帰った後は、できるだけいつも通りに過ごした。家の仕事をして、食事を食べて、入浴を済ませ、少しだけはやめに布団に入った。


深夜3時に、アラームで起床した。目覚めは良かった。起きるとすぐに、押し入れの奥に隠していたお客さんの忘れ物のライターと、古新聞を取り出した。冬のうちにファンヒーターから少しずつ集めておいた灯油は、500mlのペットボトルに10本分になっていた。


私は机の上に道具を並べて、眺めながら、想像して、少しだけうっとりした。そうして物思いに耽っていたから、背後の足音に気がつかなかった。


「ひかりちゃん、やめよう」


声をかけられて、慌てて振り返る。真面目な顔したお兄ちゃんが、私をまっすぐ見つめていた。


「お兄ちゃんまでそんなこと言うのね」


私は大切な道具たちをお兄ちゃんから守るみたいに背後に隠した。


「僕と一緒に、逃げよう」


お兄ちゃんは、泣きそうに、お願いするみたいに私に言った。


私は、お兄ちゃんがもう旅館を燃やそうなんてちっとも思ってないことに気がついていた。


お兄ちゃんは、私より頭が良くて、県外の大学へ合格して家の外に出られて、そこには好きなことを通じてできた友だちだっている。私は、お兄ちゃんみたいに頭は良くないし、お兄ちゃんみたいに好きなことや夢中になれることなんてなくて、お兄ちゃんみたいに友だちもいない。


私は他の生き方なんて、この旅館の外での生き方なんて、知らない。このへんでは、みんな私のことを知ってる。もし家を出て、一人暮らしをはじめたって、アルバイトを始めたって、「糸永の子」だ。そもそも、家を出るためのお金なんて、ないし。それとも、身体を、売る?お客さんにしてきたように?そうすれば、お金は手に入るかもね。でも、それじゃ、意味ないよ。


「私は逃げたいなんて思ったこと1度もない。全部全部、壊してやりたいのよ」


私はお兄ちゃんの瞳をまっすぐ見つめ返す。私をめちゃくちゃにしたこの家を、全部灰にして、なかったことにしたかった。そうでなくちゃいけなかった。


「私は、1人でもやる」


私は、大切な道具たちを抱えて、部屋を出た。お兄ちゃんは、私を止めなかった。たぶん、止められなかった。


私は灯油を撒きながら廊下を走った。その手は少し震えていた。

 

 

 

 


5


灯油を撒き切った後は、その上に新聞紙を散らかした。その一端にライターで火をつける。火が大きくなるように、どんどん新聞紙を加えていく。炎が新聞紙から床に燃え移って、20センチほどの火柱をあげたこを確認した時、これで大丈夫だと思った。火柱はそのまま道標のような灯油に従って、廊下へ燃え広がっていった。火の回りは私の予想よりも遥かに早かった。木造の老舗旅館は、炎に対してあまりに無防備だった。


私は旅館のすぐ隣の浜辺まで、息を切らして走った。その途中で、ボン!と爆発の音が聞こえて、反射的に振り返った。既に旅館全体に炎が燃え広がって、一部が崩れ落ちていた。ガチャン、バリン、とガラスの砕ける音がそれに続いた。


私は別府湾の浜辺までたどり着くと、洋服が濡れるのも厭わずに、ばしゃばしゃと膝まで海に浸かった。水面は月と炎に照らされて、キラキラと輝いていた。


海の中から見上げる燃える旅館は、美しかった。足元はヒンヤリと冷えているけど、顔や手は炎で熱っていた。炎からはずっと遠いのに、熱かった。


「綺麗」


私は、目の前でゆらめく炎の美しさを、体で感じる熱を、ただひたすら全身で噛み締めていた。


遠くに誰かの泣き叫ぶ声と、消防車のサイレンが聞こえる。


私の後を追いかけて、お兄ちゃんも浜辺にやってきた。お兄ちゃんが生きていることがわかって、嬉しかった。この家でお兄ちゃんだけを唯一好きだった。


「綺麗だね!お兄ちゃん」


私はお兄ちゃんに向かって笑いかける。お兄ちゃんは何をするわけではなく、海の中ではしゃぐ私をずっと見つめていた。