光ってみえるもの

 

 

 

0


中学校を卒業したその日に、旅館を燃やした。雲ひとつない月の綺麗な夜だった。私は少し離れた場所から、ずっと燃える旅館を見つめていた。暗闇に浮かぶ炎が、頬に感じる熱が、私に生きているという実感をもたらした。美しいと思った。

 

 

 

 


1


はじめは、自分が何をされているかなんてわからなかった。


物心つく前から、旅館の手伝いをしていた。誰に命令されたわけではなかったと思う。3つ年上の壱郎お兄ちゃん(兄といっても従兄なのだが)が働いているところを見ていたから、そうするのが自然だったのだ。


家の手伝いをすれば、お父さんとお母さんに褒められた。学校でも、「ひかりちゃんは、おうちのお手伝いをしてえらいね」って、先生に褒められた。褒められれば、嬉しかった。嬉しかったから、続けた。


はじめてお客さんの前で裸になったのは9歳の時だった。


何が起こったのかよくわからなかった。全部が終わった後、お父さんもお母さんも、叔父さんも叔母さんもおじいちゃんもおばあちゃんも、偉かったねって褒めてくれた。壱郎お兄ちゃんだけが、何も言わなかった。何も言わずに、ただ私のことを抱きしめてくれた。


よく考えれば、ずっとおかしかった。夏休みは、ろくに友だちと遊んだことはない。部活動だって、させてもらえなかった。放課後は帰ってきて、家の手伝い。休日も。宴会の片付け、洗い物、スーパーへのおつかい。入学式だって、三者面談だって、授業参観だって、運動会だって、インフルエンザで倒れたって、全部全部全部全部。


家族のことは、好きだった。けど、どんどん、歪んできた。だんだん、自分の家が、みんなと違うことがわかる。ふつうじゃないことがわかる。自分の家がおかしいとを認めるのは、私にとってすごく勇気がいることだった。


お客さんにひどくされた時なんかは、死にたくなる。そういう時は壱郎お兄ちゃんがそばにきて、私のことをぎゅっとしてくれた。その瞬間が、私は1番幸せだった。


私の気持ちをわかってくれるのは、壱郎お兄ちゃんだけだった。壱郎お兄ちゃんだけが、私と同じだった。

 

 


今でも覚えている。私が12歳の頃の、月が綺麗な秋の夜だった。


お兄ちゃんと私は「お手伝い」が終わった後、寝室に戻って寄り添って窓から月を見上げていた。疲れていたけど、不思議と目は冴えていた。


どれほど月を見ていただろうか。しばらくしてから、お兄ちゃんが呟いた。


「ひかりちゃんが中学校を卒業したら、この旅館を燃やそう」


私は驚いてお兄ちゃんの方へ振り向く。お兄ちゃんはまっすぐ夜空を見上げている。お兄ちゃんの緑色の瞳に丸い月がぽっかり輝いている。


「そんなこと、できるの」


私は、確かめるみたいに聞いた。お兄ちゃんは私の方へ向き直って、力強く言い切った。


「できるよ。僕たちなら」


世界が急に、輝いたみたいだった。お兄ちゃんの言葉に、私は生まれ変わったような思いになった。


「約束だよ」


私たちはどちらからともなく、指切りをした。小指から伝わるお兄ちゃんの温度だけが、今の私に信じられるものだった。

 

 

 

 

 

2


私は中学生になった。


私とお兄ちゃんの「お手伝い」は変わらず続いた。


私たちはあれ以降、あの「約束」について話すことはなかった。ただ、あの「約束」は、私にとってほとんど唯一の心の拠り所となっていた。


私は少しずつ計画の準備を始めた。とはいっても、そこまで大掛かりな準備は必要なかった。放火による建物火災は、ライター1つあれば、いつだってできることだった。


それでも、より燃えやすくするために、なにかできることはないかと、放課後や休日は図書館でキャンプの本を読むなどして過ごした。そうしている時間は、心が落ち着いた。


バレないように完全犯罪を成し遂げようなんて気持ちは、はじめからなかった。失うものなんてないし、全部燃やせれば、そのあとのことはどうでもよかった。


つらい夜は月を見て、「約束」に想いを馳せた。ほとんど私の生きる意味だった。

 

 

 

 

 

3


お兄ちゃんのバイクの後ろに乗って、ドライブに出かける。会わせたい人がいるからと、誘われたのだ。お兄ちゃんとこんなふうに出かけるのは、はじめてだった。


30分ほど走ってたどり着いたファミリーレストランには、お兄ちゃんの友だちがいた。お兄ちゃんが誰かと仲良くしているところはあまり見たことがなかったので、驚いた。好きなものが同じで仲良くなったのだと教えてくれた。


古賀と梅崎と緒方は、みんなちょっとバカだけど、優しくていい奴だった。3人とも、お兄ちゃんのこと私のこと、うちのこと、知ってるのか知らないのかはわからないけど、みんな、いいやつだった。


友だちといる時のお兄ちゃんって、こんなふうに笑うんだな。なんだかちょっと知らない人みたいで、緊張した。私はしばらく借りてきた猫みたいに、お兄ちゃんの隣で大人しくしていた。


「ひかりちゃんは、いっちゃんのことが大好きなんだね」


お兄ちゃんにくっついてる私を見て、古賀はそう笑いかけた。私はなんだが見透かされたようで恥ずかしくて、黙って俯いてしまった。


それからも誘われて、何度かお兄ちゃんたちの集まりに行った。私もだんだん打ち解けてきて、3人と話せるようになってきた。


特に古賀は、私に優しかった。弟妹なんていないくせに、私のことを妹みたいだと言ってかわいがった。私はそれが、はじめは怖かったけど、古賀があんまり優しいので、だんだん満更ではなかった。


だから、私は油断してしまったのだ。ある日、たまたまお兄ちゃんたちが席を外したタイミングで、古賀にだけ、言ってしまった。私の夢を。


「そんなこと、だめだよ」


古賀は止めた。


古賀ならわかってくれるかもって、信じた私がバカだった。古賀は、たぶん、悪くない。私が、私の家が、異常すぎるだけだ。でも、私の大切な夢を否定されたことが、悲しかった。


それから私は、お兄ちゃんと古賀たちの集まりには行かなくなった。


誰にも、私の夢については話さなかった。私だけの宝物みたいに、胸の中でずっと大切にしていた。

 

 

 

 


4


3月9日、からりと晴れた春の日だった。どれほどか待ち侘びていた、中学校の卒業式その日だった。


朝起きてから、登校して、卒業式の間中も、私はずっとドキドキしていた。校長先生の言葉も、校歌斉唱も、卒業証書をもらう瞬間のことも、何にも覚えてない。


帰ったら、燃やす。帰ったら、燃やす。帰ったら、燃やす。これで、全部終わる。


決行は、誰にも邪魔されない、夜がいい。幸い今日は天気も良い。月齢も、ちょうど満月だ。


学校から帰った後は、できるだけいつも通りに過ごした。家の仕事をして、食事を食べて、入浴を済ませ、少しだけはやめに布団に入った。


深夜3時に、アラームで起床した。目覚めは良かった。起きるとすぐに、押し入れの奥に隠していたお客さんの忘れ物のライターと、古新聞を取り出した。冬のうちにファンヒーターから少しずつ集めておいた灯油は、500mlのペットボトルに10本分になっていた。


私は机の上に道具を並べて、眺めながら、想像して、少しだけうっとりした。そうして物思いに耽っていたから、背後の足音に気がつかなかった。


「ひかりちゃん、やめよう」


声をかけられて、慌てて振り返る。真面目な顔したお兄ちゃんが、私をまっすぐ見つめていた。


「お兄ちゃんまでそんなこと言うのね」


私は大切な道具たちをお兄ちゃんから守るみたいに背後に隠した。


「僕と一緒に、逃げよう」


お兄ちゃんは、泣きそうに、お願いするみたいに私に言った。


私は、お兄ちゃんがもう旅館を燃やそうなんてちっとも思ってないことに気がついていた。


お兄ちゃんは、私より頭が良くて、県外の大学へ合格して家の外に出られて、そこには好きなことを通じてできた友だちだっている。私は、お兄ちゃんみたいに頭は良くないし、お兄ちゃんみたいに好きなことや夢中になれることなんてなくて、お兄ちゃんみたいに友だちもいない。


私は他の生き方なんて、この旅館の外での生き方なんて、知らない。このへんでは、みんな私のことを知ってる。もし家を出て、一人暮らしをはじめたって、アルバイトを始めたって、「糸永の子」だ。そもそも、家を出るためのお金なんて、ないし。それとも、身体を、売る?お客さんにしてきたように?そうすれば、お金は手に入るかもね。でも、それじゃ、意味ないよ。


「私は逃げたいなんて思ったこと1度もない。全部全部、壊してやりたいのよ」


私はお兄ちゃんの瞳をまっすぐ見つめ返す。私をめちゃくちゃにしたこの家を、全部灰にして、なかったことにしたかった。そうでなくちゃいけなかった。


「私は、1人でもやる」


私は、大切な道具たちを抱えて、部屋を出た。お兄ちゃんは、私を止めなかった。たぶん、止められなかった。


私は灯油を撒きながら廊下を走った。その手は少し震えていた。

 

 

 

 


5


灯油を撒き切った後は、その上に新聞紙を散らかした。その一端にライターで火をつける。火が大きくなるように、どんどん新聞紙を加えていく。炎が新聞紙から床に燃え移って、20センチほどの火柱をあげたこを確認した時、これで大丈夫だと思った。火柱はそのまま道標のような灯油に従って、廊下へ燃え広がっていった。火の回りは私の予想よりも遥かに早かった。木造の老舗旅館は、炎に対してあまりに無防備だった。


私は旅館のすぐ隣の浜辺まで、息を切らして走った。その途中で、ボン!と爆発の音が聞こえて、反射的に振り返った。既に旅館全体に炎が燃え広がって、一部が崩れ落ちていた。ガチャン、バリン、とガラスの砕ける音がそれに続いた。


私は別府湾の浜辺までたどり着くと、洋服が濡れるのも厭わずに、ばしゃばしゃと膝まで海に浸かった。水面は月と炎に照らされて、キラキラと輝いていた。


海の中から見上げる燃える旅館は、美しかった。足元はヒンヤリと冷えているけど、顔や手は炎で熱っていた。炎からはずっと遠いのに、熱かった。


「綺麗」


私は、目の前でゆらめく炎の美しさを、体で感じる熱を、ただひたすら全身で噛み締めていた。


遠くに誰かの泣き叫ぶ声と、消防車のサイレンが聞こえる。


私の後を追いかけて、お兄ちゃんも浜辺にやってきた。お兄ちゃんが生きていることがわかって、嬉しかった。この家でお兄ちゃんだけを唯一好きだった。


「綺麗だね!お兄ちゃん」


私はお兄ちゃんに向かって笑いかける。お兄ちゃんは何をするわけではなく、海の中ではしゃぐ私をずっと見つめていた。

 

 

 

ファム・ファタル

 


1.

 

海沿いの国道を北へ、別府へ向かって進路を取る。中古のバイクだが、十分走る。陽射しが強いので、頬に感じる12月の潮風が気持ちが良かった。


朝から運転を続けて、太陽が高く登ったところで、腹が減っていることに気づく。昼食を取ろうと、通りかかった道の駅でエンジンを止めた。


「道の駅くにさき」は、人はまばらで、閑散としていた。簡素な休憩所に、野菜の直売所と定食屋が併設されている。


定食屋では、焼き魚定食を注文した。10分も待たずに食事は配膳された。しっかり焼き目のついた太刀魚は結構おいしい。


定食を食べ終わると、このあとのことにボンヤリと思いを巡らせた。孤独な旅だったが、気分転換くらいにはなった。このまま別府港に向かい、フェリーで大阪へ帰るつもりだ。


「お兄さん、暇なん?」


カバンから地図を取り出して進路を確認していたところに、急に声をかけられたので驚いた。


顔を上げると、目の前の席には小柄な少年が座っていた。まだ高校生くらいだろうか。大きな碧色の瞳が印象的だった。


相席するほど混雑したのかと慌てて店内を見渡したが、店内には俺と少年の2人しかいなかった。少年は薄桃色の口角をキュッと上げて続ける。


「お兄さん、大学生?旅行?大分には何しに来たん?」


少年があまりにも自然に質問してくるので、俺はよくわからないまま答えてしまう。


「大学生。大阪から1人で、バイクで。なんていうか、自分探しの旅っていうか……。」


俺が戸惑いながらそう返すと、少年はクスクスと笑った。


「お兄さん、真面目なんやね」


確かに俺の答え方は正直すぎたかもしれなかった。しかし、そうさせてしまう不思議な魅力のある少年だった。


「君は誰?地元の人?」


俺が質問を返すと、少年は俺を覗き込むように見上げてニッコリ笑った。


「糸永壱郎。お兄さん、泊まるとこ決まってないならうち泊まらん?」

「えっ」

「うち、旅館なんよ。温泉でのんびりしよや、お魚のお造りもあるけえ」

「あ、そういう……」


糸永くんは自分の家のことを嬉々として語った。「癒しの宿糸永」は由緒正しい老舗旅館なのだという。高校が冬休みになったので、手伝いをしているそうだ。屋上の露天風呂、美しい別府湾、新鮮な海の幸とか。キャッチセールスとはいえ、素晴らしい旅館だと思っていることは確からしかった。


俺は財布の中身を思い出す。大阪に帰る前に少し贅沢するくらいの余裕はあるはずだ。孤独な旅の途中で、こうして糸永くんに出会ったのも何かの縁かもしれないと、気分が高揚しているのもある。


「行きたいな、糸永くんのうち」


俺がそうお願いすると、糸永くんはいたずらっぽく笑った。


「1名様ご案内です」

 

 

 

 

 

 

2.

 

旅館までの道中を、糸永くんが案内してくれるというので、従うことにした。


別府の街にはあちらこちらに湯けむりが立っており、温泉文化が生活に根付いているのを感じられる。


市内には特徴的な源泉が点在しており、それらを観光することを「地獄巡り」と呼ぶのだという。


糸永くんに案内されるまま、それらを歩いて回った。最後に来た「海地獄」と呼ばれる源泉は、コバルトブルーの色をした大きな池状の源泉だった。


「綺麗だね」


歩き疲れた俺たちは併設された喫茶店で休憩をとった。池全体を眺めることができる、眺望の優れたカウンター席に並んで座る。


「昔は心中目的に入水する人も多かったらしいわ」

 

糸永くんはなんでもないみたいに言う。俺は想像してゾッとしてしまう。水面はぶくぶくと沸騰しており、白い湯気が湧き立っている。身を焦がすほどの恋というよりは、溶けるという方がそれらしいか。確かにコバルトブルーの美しさが人を狂わせるのかもしれなかった。


茶店では2人ともプリンを注文した。源泉から湧き出る蒸気を利用して作られたプリンは、この店の名物なのだという。素朴な味わいでおいしかった。


「プリン、おいしいね」

「他にも喫茶店はあるけど、ここのが1番おいしいんよ」


大学でもアルバイト先でも友人が多い方ではないので、誰かと食事をすることも、何気ない会話をすることも久しぶりだった。


糸永くんと話すのは楽しかった。何も見つからない旅だったけど、糸永くんに出会えただけでも、来た甲斐があったのかもしれないと思うほどだった。


「楽しいな」


思わず口にする。言ってからハッとした。糸永くんの方を見ると、糸永くんはぽかんとしている。そのあと、すぐ笑った。


「僕もお兄さんと話せて楽しいよ。こういうふうに話せる友達あんまりおらんけん」


俺は呆気にとられてしまう。


「そうなの?意外」

「人と足並み合わせるの苦手やけん。でもお兄さんといるのは楽しいよ」

 

糸永くんの唇が弧を描く。例え俺に気を使っただけだとしても嬉しかった。俺は照れてわざと話題をずらした。


「別府はいいところだね」


糸永くんは笑った。


「僕もこの町が大好きなんよ」


糸永くんの笑顔が眩しくて、俺は赤面した。

 

 

 

 

 


3.

 

観光を済ませ、「癒しの宿糸永」に着いたのは夕方を過ぎた頃だった。宿は数年前にリフォームをして随分今風になったらしかった。ずいぶん立派な宿だった。


受付をすませると、従業員が丁寧な接客で部屋まで案内してくれた。俺と糸永くんはその後ろをついていく。糸永くんが従業員に「坊ちゃん」と呼ばれているのを聞いて、なんだか身構えた。


通された部屋は1人用のこぢんまりとした和室だったが、窓辺から別府湾を望む素晴らしい眺望だった。


「じゃあ僕は別のお客さんのオモテナシがあるけえ、離れるけどゆっくりしてってな」


糸永くんはそう言って部屋を後にした。手を振って別れた。


しばらく窓辺から別府湾の水面を眺めている。たゆたう波を見つめていると、なんだか眠くなってくる。

 

 

大阪港からフェリーに乗り、鹿児島を経てここまで来た。20歳で思い立った、いわゆる「自分探しの旅」だった。


地元を出て大阪の大学へ進学し、およそ1年半が経過した。はじめは新生活にそれなりの希望を抱いていたものだが、もともと人見知りな性格のため十分な交友関係を築けず、充実とは言い難い日々を過ごしていた。


そんな生活に何かしらの変化を求めて、「自分の探しの旅」に出ようと決めたのがこの前の春のことだった。


そう決めてからは、コンビニと居酒屋のアルバイトを掛け持ちしてがむしゃらに働いた。自動車学校に通い、中古のバイクを購入した。残った貯金を旅費に充てた。


大阪から乗ったフェリーでは慣れない揺れに参ってしまい、移動中はめっきり寝込んだ。鹿児島に降りた後の行き先は未定だったが、帰路は波の穏やかな瀬戸内海を経由する航路にしようと考え、宮崎を経由して別府港へ向かうことに決めたのだった。


鹿児島に降りた後は、カプセルホテルやインターネットカフェに泊まりながら、観光地を見て回ったり、名産品を食べたり、時には海を見てぼーっとしたりして過ごした。


結論から言うと、「自分探しの旅」は失敗だった。ほとんど誰と話すわけでもなく、孤独な自己の内面に変化が起こるはずもなかった。


だから、この旅で糸永くんに出会えたことは、僕にとっての幸福だった。こんなキレイな男の子と、友人になれた。明日、どこかに誘ったら一緒に来てくれるだろうか。長期休みがあれば僕がまた別府へ遊びに来たっていいし、糸永くんが大阪に遊びに来てくれたらどこでも案内してあげるのに。

 

 

そんなことを考えているうちに、眠ってしまっていたらしい。夕食を知らせる従業員の声で目を覚ました。


従業員はてきぱきと部屋食の配膳をすませる。座卓に並ぶ料理は、目にも鮮やかだ。


夕食は、糸永くんが自慢していた通り、お刺身も茶碗蒸しも煮魚も天ぷらも、すべておいしかった。あまり大食いの方ではないが、ぺろりと食べ切れた。


食後に適当につけたテレビでは、知らない地元の番組がやっている。しばらくそれを眺めた後は、支度を整えて、屋上の露天風呂へ向かった。


露天風呂へ向かう長い廊下は、やけに騒がしい。どうも、宴会場の横を通っているらしい。中年男性の下品な声が、廊下まで漏れている。ずいぶん酔っているらしかった。あんまりうるさいので、ついそちらの方を見てしまう。座敷の襖がほんの少しだけ空いていて、中の様子がうかがえる。大勢の中心にいるのは。


「今のは……」


それと目があって、息を飲んだ。

 

 

 

 

 

 

4.

 

冬の露天は、さすがに寒い。この気温だからか、ほかに客はいなかった。夜空は静かに澄んでいて、ぽっかりと月が浮かんでいる。


簡単に身体だけ流して、すぐに湯に入った。身体は温まるはずだが、先ほど見たものが信じられなくて、四肢は凍っているように冷たかった。


どれほどそうしていただろう。しばらくして、白い湯けむりの向こうに人影が見えた。こちらに向かってくると、その輪郭がハッキリしてきて、それが裸の糸永くんだということがわかる。


のぼせて見ている夢ではなかった。糸永くんはちゃぷんとお湯に浸かると、そのまま俺の隣まできて、俺の腕を掴む。ぐいっと僕を引き寄せて、僕の胸の中におさまる。


「お兄さん、さっき僕のこと見とったよね」


糸永くんは俺の耳元でそう囁く。


先ほど、襖の奥に見つけた、碧い瞳を思い出す。やはり先ほど見たものは、複数の中年男性に蹂躙されていたあの人影は、糸永くんで間違いなかったのだ。


「お兄さんも僕としたかったんやろ」


糸永くんの細い指先が俺の身体をなぞる。


「違う!」

「違わんよ」


口では否定しても、情けないことに糸永くんに触られた身体は反応してしまう。糸永くんは、呆れたみたいな、わからないみたいな顔で俺を覗き込む。糸永くんの碧い瞳に俺が映っている。


「きみのことが好きなんだ……」


裸の糸永くんを、抱きしめることも、拒否することもできないまま、俺は悔しくて泣いてしまう。糸永くんはおかしくてしょうがないみたいに笑った。


「今日会ったばっかりなのに、おかしなこと言うんやね」

「家族にやらされてるんなら俺が止めさせる」

「僕が好きでやってるだけっちゃ」

「嘘だよ」

「嘘じゃないよ。僕も気持ち良い、お兄さんも気持ち良い、それじゃダメなん?」

「俺は君を助けたい」


俺が泣き喚いているのとは真逆に、糸永くんはずっと冷静だった。


「どうやって?」


糸永くんはつまらないみたいに言い放った。俺を掴んでいた手を離して、背を向ける。離れていった温度が寂しくて、今度は俺が糸永くんの腕を掴んだ。


「俺は……きみが……」


俺はその背中に向かって語りかける。でも、その後には何も続けられない。


「お兄さんはまたここに来るよ。きっと」


糸永くんは振り返ってそれだけ呟くと、俺の手を鬱陶しいみたいに振り払って、するりと離れていった。


俺は何もできず、ただその場に蹲っていた。

 

 

 

 

 

 

5.

 

その後、どうやって部屋に戻ったのかはよく覚えていない。とにかく、何も考えられなくて、泥のように眠った。


起床した後も全身が怠くて重かった。朝食の味はわからなかった。すぐにチェックアウトを済ませた。


予定通り、別府港から大阪行きのフェリーに乗った。船が港を離れていく。


曇天の空の下で糸永くんのことを考えた。


『お兄さんはまたここに来るよ。きっと』


糸永くんが囁いたあの言葉を思い出す。呪いのように、耳について離れない。


糸永くんは、あんなことをずっと続けるんだろうか。どうしたら彼を救うことができるんだろうか。俺はまたあそこに行くのだろうか。


頭の中をグルグル回って、瀬戸内海の凪いだ水面に嘔吐した。

 

 

 

 

 

あなたがほしい

 

 

 

 

 

糸永くんが街で男の人と2人でいるところを、何度か見たことがある。見かける場所は、駅前だったり、海沿いの国道だったり、色々。年齢も、大学生くらいから私のお父さんくらいの人まで、幅広い。


私はそれを見るたび、とても意外で、不思議だった。


糸永くんは、同じ塾に通っている男の子だ。黒髪に眼鏡をかけた、クラスの中では比較的落ち着いている感じの、綺麗な子。


私は、糸永くんと話したことはない。糸永くんが誰かと仲良くしているのも、見たことがない。糸永くんはあまり群れることを好まない性格らしかった。別に避けているというふうでも無かったけど、必要以上に誰かと話したり協力したりしないところがあった。


だから、糸永くんが誰かと並んでいるだけで、私はすごく驚いた。しかも、そういう時の糸永くんは、うんと色っぽく、魅力的に見えたから。


それから、私は気になって気になって、糸永くんのことばかり考えてしまう。授業時間中はめいっぱい、斜め前に座る糸永くんの背中を見つめている。


糸永くんの見た目が変わったわけでもないし、相変わらず話したこともない。でも、世界の中に、糸永くんがぽやんと、光って浮かんで見えるみたいに、私はすっかり目が離せなくなってしまった。

 

 

 

 


ある日の授業中も、糸永くんのことばかり考えているので、またノートを取るのを忘れてしまう。授業終わりに、居眠りしてしまったからとウソをついて、友人にノートを借りた。糸永くんに惹かれていることは、誰にも内緒にしている。


数学の授業は、だんだん難しくなっている。この塾には色んな高校の生徒がいるけど、進度が1番速い別府クロス学院のカリキュラムに併せて授業がすすむので、私の高校ではまだ学んでいない範囲も先行して勉強しなくちゃいけない。


教室に残って、ホワイトボードと友人のノートを交互に見ながら、ノートをまとめる。他の生徒はもうすっかり帰ってしまって、教室には私だけだ。


10分ほどかけて、板書を全て書き写した。テーブルの上の消しカスを集めて、ゴミ箱に捨てる。ノートを鞄に詰め込んで、席を立って、教室のドアを開けると、そこに、帰ったはずの糸永くんが立っていた。


「園田さん、なにしちょんの」


糸永くんが突然にあらわれたことに驚いたし、糸永くんが私の苗字を知っていたことにも戸惑った。


「い、糸永くんこそ」

「僕は忘れ物をしてしまって」


糸永くんと、教室に2人きりなんて、夢みたいなシチュエーションに、私はくらくらしてしまう。


そんな私の高揚も伝わらず、糸永くんはそのまま私の横を通り過ぎて、斜め前の机の引き出し部分をゴソゴソとあさった。水色のノートを見つけると、鞄にしまうと、すぐに教室を出た。


それが寂しくて、私は通り過ぎる糸永くんの制服の裾を掴んだ。


「えっと」


糸永くんは不思議そうに私を見つめている。糸永くんの、碧色の瞳に、私が映っている。だから私は、嘘をつけなくなってしまう。


「糸永くんのことを、考えてたの」


私がそう言うと、糸永くんは少しだけ驚いた顔をした後、すぐにへらりと笑った。


「園田さん、最近いつも僕のこと見ちょるもんな」


糸永くんには全てお見通しらしかった。私は恥ずかしくて、全身が焼けたみたいに熱くて、でも、その瞳から目が離せない。


碧い瞳に急き立てられるみたいに、私は続ける。


「この前駅で一緒にいたの、誰?」


私の言葉に、糸永くんは薄桃色の唇の両端をゆっくりとあげた。


「誰だと思う?」


糸永くんって、こんなふうに意地悪を言う人だったかしら。


私は、ドキドキしてしまう。今私の目の前にいる糸永くんは、私の知っている糸永くんだろうか?糸永くんって、こんなにうんと、色っぽかったっけ。


「ええと……」


本当は、なんとなく想像している。だって、男の人と会っている時の糸永くんって、こんなふうにうんと色っぽくて、そんな糸永くんを見ている男の人はみんな、とろんとした目をしているから。


「……お金払ったら、私ともそういうことしてくれる?」


街で糸永くんを見つけた時からずっと、私もあんなふうに糸永くんに触ってみたいって、狂ってしまいそうだった。


私がそう言うと、糸永くんは目をまんまるくして、それからたまらないみたいにプッと吹き出した。


「園田さんはそういうことしない方がいいよ」


糸永くんは、おかしくてしょうがないみたいだった。真剣なつもりだったけれど、そう笑われると、とんでもないことを言ったものだと身に染みてきて、私はあんまり恥ずかしくてうつむいてしまう。うつむいてから、ずっと糸永くんの制服を掴んだままだったことに気づいて、慌てて手を離した。

 

 

 

 


「またね」


そう言ってその場を去る糸永くんは、教室でよく見るいつもの糸永くんだった。残された私はポツンと、なんだか寂しい気持ちになる。


はじめて糸永くんと話したのに、糸永くんと話す前より、ずっと糸永くんが遠かった。糸永くんの見ているものを、私も知りたいよ。糸永くんじゃなきゃ、だめだ。

神様

 


1

 

別府クロス学院は、カトリック系の男子高校だ。

今朝降ったばかりの小雨が、桜の花びらを濡らしている。校門から校舎へ続く真っ白い桜並木は、4月上旬の今しか見られない。

つきあたりの校舎を右に曲がると、大きなお聖堂が立っている。毎日、朝礼より1時間早くここへ来て、お祈りを捧げるのが僕の日課だ。

薄暗くて静かな廊下の先にある、重厚な飾り扉を開ける。祭壇の中央にはイエズス像が立ち、その横には美しいステンドグラスと、微笑みを称えた聖母像が並んでいる。床には通路を挟んで左右に木製の長椅子が列を作る。

いつもの景色と違ったのは、その通路の中心に、マリア様が立っていたことだ。ステンドグラスから差し込む淡い朝日を浴びて、イエズス像を見つめている。やがてこちらの視線に気づき、振り返って僕を見ると微笑んだ。

よく見れば、そのマリア様は自分と同じ制服を着ていた。小柄な体躯に、整った顔立ちをしている。ウェリントンメガネの奥の碧い瞳が美しい。


「……きみは、新入生?」


彼のような人を、もしひとめでも見ていたら覚えていないはずがなかった。僕の不躾な質問にも、彼は厭わずに答えた。


「そうです。糸永壱郎」

 

喋っているところを見ると、当たり前だけれど、普通の少年だ。着ている制服もビシッとノリがついていて、新入生らしいあどけなさがある。


「学校の中をいろいろ見てみたくて、早く登校したんです。そしたら急な雨に降られてしまって、近くにあったこの建物に。勝手に入ったらまずかったですかね?」


糸永くんは心配そうに眉を下げた。よく見ると髪や肩のあたりが、少しだけ濡れている。


「ここは誰にでも開かれている場所だから、大丈夫だよ。困っている人にこそ、来てほしい場所だから」


それを聞いた糸永くんはホッとした表情になった。


「復活祭やクリスマスの時にはここでミサが行われるんだ。糸永くんも、興味があったら来るといいよ」


それから僕は、不思議と饒舌になってしまう。学校行事のこと、授業のことや、僕が所属している聖書研究会の活動のこと。彼によく思われたくて、必死なのかもしれなかった。

しばらくしてから、糸永くんは窓の外と腕時計を交互に見てからつぶやいた。


「そろそろ行かないと。雨も止んだみたいだし、1時間目がはじまっちゃう」


糸永くんはそう言うと、扉の方へ向かった。僕はなぜだか別れ難くて、その腕を掴んで引き留めた。


「また会いたい。僕は毎日、朝と放課後、ここにいるから」

 

糸永くんはポカンとしていた。それを見て、僕はまだ自己紹介すらしていないことに気がついた。慌てて掴んだ腕を離して、弁明する。


「ごめん、僕は……」

「知ってるよ。翠くん。入学式で喋ってた、生徒会長さん」


糸永くんはイタズラに微笑んだ後、丁寧に頭を下げてお聖堂を出て行った。

置いていかれた僕は、しばらくそのままそこにいて、予鈴でハッと目が覚めたようにしてお聖堂を出た。


朝のお祈りをしなかったのは、入学してからこれがはじめてだった。

 

 

 

 

 

 

2

 

別府クロス学院には聖書の授業や季節のミサなどの特徴的な行事はあるが、基本的に生徒の信仰は自由であり、実際のところカトリック教徒は4割程度である。

その中でも僕は熱心な方で、授業だけでなく、週1回の聖書研究会や関連施設への慰問などのボランティア活動にも参加していた。

糸永くんにとっては僕のそういうところがめずらしく、面白いみたいだった。糸永くんはカトリックを信仰しているわけではなかったけれど、僕がいる時間にお聖堂へやって来ては、授業で習った聖書の内容についてよく質問をした。僕はそのひとつひとつについて、丁寧に答えた。

聖書研究会や生徒会でも下級生の指導はしているが、こんなふうに慕われるのははじめてだったので、純粋に嬉しかった。


「翠くんは、どうして神様を信じているの?」


糸永くんはいつものようにお聖堂へやってきて、けれどいつもとは少し違う質問をした。いつもはたいてい、ルカとかマタイの福音書のこの一節はどういう意味なのかとかだったから。


「物心がつく前から家族と一緒に教会に来ていたから、自然とかな。神様はいつだって僕のことを受け入れてくれるから」


僕にとって生活することは、神様とともにあることだった。


「高校を卒業したら、修道院に入るんだ。小さい時から、決めているんだよ」


幼いうちから修道院に入ることも考えたけれども、両親にカトリックの学校でしっかりと学ぶよう言われて別府クロス学院へ入学した。

入学してみて、良かったと思う。カトリックへの教養が身についただけではなく、信頼する神父様や、聖書研究会の仲間にも出会えたから。


「なんか、わかる気がする。いいね、そういうの」


糸永くんはニコニコしながら僕の話を聞いている。僕は少し恥ずかしくて、話題を逸らした。


「糸永くんは、どんなふうに育ったの?」


僕が聞くと、糸永くんは家族のこと、家業のこと、好きなもののことを教えてくれた。小さい時から信じられるものに囲まれて育ったところは、僕たちは似ているのかもしれなかった。どれも他愛もない話だったけれど、糸永くんが口にする言葉は、不思議とすべて新鮮で愛しいことのように感じた。

 

 

 

 

 

 

3


出会ってから数ヶ月が過ぎて、僕と糸永くんは、少しずつ、けれど確実に親しくなっていた。


学年の違う僕たちは校舎で偶然会うということはあまりなく、糸永くんが朝か放課後にお聖堂へ来ることがほとんどだった。たまには約束をして昼休みに外で食事をすることもあった。

僕は糸永くんを誰にも見せたくないような気持ちがあって自分のクラスに彼を呼ばなかったし、それ以上に誰かが糸永くんといるところを見たくないような気持ちがあって彼のクラスにも行かなかった。


ある日の放課後、僕は1人でお聖堂にいた。

昼まではからりとした夏空だったけれど、ステンドグラスから見える雲行きは既に怪しくなっていた。

予想通り、すぐに雨が降り出した。雨は次第に勢いを増し、ざあざあと降り注いだ。雨具を持ち合わせていなかったが、激しい雨ならすぐに止むだろうと、雨の勢いがおさまるのを待った。

すると、勢いよく音を立ててお聖堂の扉が開いた。そこには今の夕立でびしょ濡れになった糸永くんが息を切らして立っていた。


「タイミングが悪かったみたい」

 

校舎からここへ来るたった数秒の間に、ぬれねずみになってしまったらしかった。

僕がブレザーのポケットからハンカチを取り出して彼の髪や頬を拭うと、糸永くんは撫でられた子猫のように目を細めた。

ハンカチはすぐに水を吸ってしまい、ずぶぬれになった彼にとっては正直あまり意味をなさなかった。


「寒い……」


糸永くんのか細い声にハッとしてその表情を見ると、唇は紫色に変化していた。夏とは言え、こんなふうに濡れてしまったら当然だった。

僕は慌てて、木製の長椅子に糸永くんを座らせる。水を吸った夏服のシャツに透き通る肌をできるだけ見ないようにして、自分のバッグから体育のジャージを取り出し、糸永くんの肩にかけた。


「雨が止むまで、少しこうしていよう」


それだけ言って、僕も糸永くんの隣に座った。

自分の中に今までなかった感情が生まれたことに気がついていた。たったこれだけのことで制御できなくなるほどの動悸に混乱した。

糸永くんはそんな僕の気持ちには何も気づいてないみたいに、僕の肩にもたれてうたた寝をしだした。触れたところは濡れて冷たいはずなのに、火傷をしたように熱くて痛かった。

僕は糸永くんを起こさず、お聖堂に反響する雨の音に耳を澄ませ、しばらくそばに寄り添っていた。

 

 

 

 

 

 

4

 

自分自身の感情に戸惑った僕は、その夜、告解室に来ていた。僕の急な申し出にも関わらず、神父様は快く時間を作ってくださった。


「あなたの罪を告白してください」


薄暗くしんと静まった告解室で、僕はひざまづく。神父様のお声かけにうまく答えられず、僕はしばらく考えた。


「……まだ、自分でも整理がついていないのです」


ひとつひとつ、言葉を選んで話す。神父様は黙って聞いている。

自分以外の誰かを求める、この気持ちの行き着く先はどこなのだろう。生涯を神に捧げる覚悟で生きてきたのに、今では、授業中も、お祈りをしているときでさえ、彼のことばかりを考えてしまう。彼の美しく碧い瞳を。しなやかに熱を持つ指先を。濡れた柔肌を。


「透明に見えていた世界が、今では赤と黒になったような……」


そう、彼と出会ってから、僕の何もかもが変わってしまった。足元が崩れてしまったかのような。


「もう彼と会うのはやめた方がいい。あなたのためにも、彼のためにも」


だから、神父様の言うことの意味はよくわかった。神父様の言うことに、間違いはなかった。


「神に立ち返り、罪を許された人は幸せです。主はいつでもあなたを見守っておいでですよ」


神父様は続けてそう諭した。


「ありがとうございます……」


自然と、涙が溢れた。あとからあとからこぼれて止まらなかった。僕はひざまづいた姿勢のまま、ただずっと泣いていた。


糸永くんが、聖職者としての僕に心を許してくれていることを知っていた。糸永くんは僕と恋人になることなど決して望んではいなかった。それなのに、僕にとっての糸永くんは、神様より神様らしい存在になってしまっていた。どうしてこんなふうになってしまったかわからなかった。ただ、情けなかった。

 

 

 

 

 

 

5


僕は僕の感情をできるだけ隠した。しかし、神父様がお気づきになったように、きっと、伝わってしまうものなのだろう。糸永くんはお聖堂へ来なくなった。

糸永くんに会いたかった。でも、会ってしまったら自分を制御できる自信もなかった。


僕は今までよりさらに熱心にお聖堂へ通うようになった。祭壇の前に跪き、お祈りを捧げる。


「主よ。私の罪をお許しください。私を誘惑に陥らせず、悪からお救いください」


幼い頃から慣れ親しんだお祈りの言葉も、今はただ上滑りするだけで、意味を持たない。それでも、何度も繰り返す。


「私の罪をお許しください。私を誘惑に陥らせず、悪からお救いください」


そうして祈るだけの日々を、くる日もくる日も繰り返した。次第に食も眠りも浅くなり、痩せ細って、両親や神父様に心配されても、止められなかった。今の僕にできることはこれだけだった。


ある日の放課後、いつものようにお聖堂へ向かった。静かな廊下を歩き、飾り扉を開けると、出会ったあの日のように、そこに、糸永くんが立っていた。


「糸永くん……」


驚きと喜びと困惑が混ざり合った感情を抑えきれず、僕は糸永くんのもとに駆けつけた。僕は糸永くんの腕にしがみついて、そのままひざまづいた。


「会えない間、ずっと、お祈りしている時だって、きみのことばかり考えてしまって……」


抗うことのできない波にさらわれたように、僕はわんわん泣き出してしまう。糸永くんはただ静かに微笑んでいる。


「もう会うべきじゃないと、神父様とも約束したのに……」


僕は糸永くんの足元にすがりつく。糸永くんはそれを止めるでもなく、受け入れようともせず、ただ、そこに立っていた。僕が黙ると、やがて、ぽつりと呟いた。


「あなたは、僕といない方がいいよ」


糸永くんの声に僕は顔を上げた。碧色の瞳は変わらず綺麗に光っている。


「どうしてそんなことを言うの」


僕が責めると、糸永くんは、悲しそうに笑った。何も答えなかった。答える必要がないみたいだった。


「僕は、きみのことが……」


僕が立ち上がって距離を詰めると、糸永くんはピッと指を僕の唇の前に突き出して、それを制止した。それからまっすぐ僕を見て、首を振った。


「だめだよ。マリア様がみてるから……」


糸永くんの後ろでは、ステンドグラスから差し込む夕日を浴びて、慈悲深い微笑みをたたえたマリア像が、僕を見下ろしていた。


「だから、これが最後。さよなら」


糸永くんはそれだけ言うと僕を置いて、お聖堂の外へ消えて行った。一度も振り返ることはなかった。

残された僕は、マリア様の足元で、ただ、透明な涙を流した。

 

 

 

 

 


6

 

あれからも、僕はこのお聖堂でお祈りを続けている。朝と晩、できるだけ、神様のことだけを考えながら、赤と黒の世界で、1人で。

 

3弾前説覚書

 

糸永くんだけ


ぴーんぽーんぱーんぽーん!えー、皆様、本日はミラクルステージサンリオ男子カワイイエボリューションにおこしいただきまして、誠にありがとうございます。九州サンリオ男子の糸永壱郎でーす!


先程上演中の注意事項が流れておりましたが、皆様ちゃんと聞いていただけましたでしょうか?わかったよーって言う人は拍手をお願いします。


ありがとうございます。そんな感じで、声は出さず、拍手で応えてくださいね。いろいろと窮屈なお願いをしてしまいますが、みんなで楽しい思い出を作るためなので、何卒ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。


そして、ここで、僕たち九州サンリオ男子からも、みなさまにいくつかお願いがございます。

ひとつめ、夏休みのご予定、もうお決まりですか?まだ決まってないよーっという方は、大分旅行などいかがでしょう?暑い夏に熱い温泉で新陳代謝を活発にすれば、お肌もぷるぷる……


(タカ)


タカくん、ウメくん!


(ウメ)


だってほら、もう、掻き入れ時だし、みなさんに大分にきてもらいたいから……


(タカ) 

 

ごめんなさい♡


(タカ)


う、うん


(タカ)


うん、ここの1つめってとこ。


(タカ)


ほんこうえんでは。


(タカ)


かぎりまして。


(タカ)


(ウメ)


(タカ)


そんなに難しい漢字書いてないけどね。


(タカ)


(ウメ)


ウメくん、読めるの?


(ウメ)


よろしく!


(ウメ)


よろしく?


(ウメ)


あの、ウメくん!


(ウメ)


ウメくん!ヤンキーがだだ漏れしてるよ!


(ウメ)


どこからどう見てもヤンキーちゃ。そんな挨拶する人、ヤンキーか永ちゃんしかいないもん。


(タカ)


(ウメ)


ちょっとちょっと、2人とも!やめて。前説中なんだから、ヤンキー禁止!

ほら、2人とも、笑って♡これから楽しい舞台がはじまるんだからさぁ、最後は明るくしめようよ。ね、温泉まんじゅうあげるから♡ほれ♡


(ウメ)


(タカ)


はい!というわけで皆様、ミラクルステージサンリオ男子カワイイエボリューションまもなく開演でございます!


(ウメ)


(タカ)


だからヤンキー禁止だってぇ!

光ってみえるもの

 

 

1.

 今日の夜は空いているか、と九条くんから連絡が来た。実に2年ぶりの連絡だった。

 正直に予定はないと伝えると、食事に誘われた。前にも九条くんと来たことのある居酒屋だった。


「元気そうやなあ」


 九条くんはビールとタバコを交互に口にする。私は、レモンサワーを頼んだ。どっちも、昔と変わらない。人って、2年じゃそんなに変わらないものだ。

 九条くんは、私の恋人だった人。しばらく恋人だったけど、やがてだめになってしまった。


「お前、まだ付き合ってるヤツおらんのか」


 枝豆を摘みながら、九条くんが呟いた。


「そうなるかもしれない人は、いる」


 最近連絡をとっている男の子がいた。まだ数回しか話したことはないけれど、デートに誘われている。


「そうか」

 

 九条くんは自分から質問してきたくせに、それ以上は聞いてこなかった。どんなやつだとか、いまどんな感じなのかとか、聞いてみればいいのに。勝手なやつだ。

 その日はビールとレモンサワーを1杯ずつ飲んで、解散した。次の約束は、しなかった。家に帰って、すぐ寝た。

 

 

 

 

 

2.

 九条くんと会った翌日に、例の男の子Aと会った。

 Aとは友人を含めた大人数の食事会で知り合い、そこで連絡先を交換したのがきっかけで、話をするようになった。

 Aが誘ってくれたのは、雰囲気のあるイタリアンレストランだった。2人きりで出かけるのはその日がはじめてだった。

 食事会は、終始和やかだった。付き合っている人はいるのかと聞かれたから、正直にいないと答えた。Aはホッとしたような顔をしていた。

 会計は、私の方が1つ年上なのに、Aがすべて払ってくれた。少しだけでも、と支払おうとしたら、じゃあ、次に会った時にお願いします。と典型的なスマートさで次の約束を取り付けられてしまった。

 そのあとすぐに、Aから連絡が来て、映画に誘われた。食事の時にちょうど私が話題にしていた映画だった。ぜひ、行きましょう。と返事をした。

 

 

 

 

 

3.

 九条くんから、週末は暇かと、また連絡が来た。集合場所は近所の神社だった。九条くんは無宗教のくせに、寺とか神社とかが好きだった。いつだか、神様を信じているの?と聞いたら、首を振った。


「来てる人はみんな、何かを願ってるやろ。そこが、おもしろい」

 

 私は、ふうん、と思った。もしかしたら、九条くんにも願いがあるのかもしれなかった。

 本殿の前に行って、お賽銭を入れたら、目をつぶる。実は私は、こういう時、何を願えばいいのかよくわからなくて、たいてい、ただ目を閉じて数字を数えている。神様は、あんまり信じてない。

 その後は、参道を散歩した。手は、繋がない。立ち入った話も、しない。話すことがなくなると、九条くんは仕事の話を、私は食べ物の話なんかをした。


 それからも何度か、九条くんと会った。連絡を寄越すのはいつも九条くんからだった。

 2年も連絡してなかったのにどうして、とは聞かなかった。たぶん、ただの気まぐれだった。そういう人だ。

 九条くんと会うたび、昔のことを思い出して、私はしっかり傷ついた。ようやく忘れかけていたところだったから。

 九条くんみたいな人は、九条くん以外にいなかった。

 

 

 

 


4.

 Aと見た映画は、おもしろかった。流行りの恋愛映画じゃなくて、ちゃんと私が見たかったアクション映画のチケットを取っておいてくれた。

 Aは、とってもいい人。優しいし、真面目だし、タバコも吸わないし、貯金もあるし、私のことを名前で呼んでくれるし、まだキスもしてないけど、してほしいって言えば、きっとしてくれると思う。

 帰りは、最寄り駅まで送ってくれた。また会いましょう、と言ってくれたので、ぜひ、とうなづいて、次の約束をした。

 

 

 

 

 

5.

 Aとの2回目のデートの数日後、私は1人で神社に来た。九条くんと来たことはあるけど、1人で来るのははじめてだった。

 いつものように、本殿の前に来た。お賽銭を入れて、手を叩いて目を瞑る。今日もやっぱり、神様に祈ることはしなかった。

 神様は信じていないけど、神社の清潔で張り詰めたような空気感は好きだった。

 帰りに参道沿いのお団子屋さんで、あん団子を1本買って帰った。

 

 

 

 


6.

 Aとの3回目のデートは中止になった。

 デートの前日に、九条くんが死んだ。事故死だった。仕事での移動中、タクシーに乗って最寄り駅へ向かう途中で、居眠り運転のトラックに突っ込まれた。即死だった。

 友人の葬式に参列するのははじめてだった。いっぱいのお花に囲まれて棺桶に収まっている九条くんは、コントみたいで、現実味がなかった。

 葬式からの帰りにコンビニに寄って、ライターと、九条くんがよく吸っていたタバコを買った。店の前で、見様見真似で、火をつけて、吸った。苦かった。

 

 

 

 

 

7.

「しょぼくれた顔しとんの」


 家に帰ると、玄関の前に九条くんが座り込んでいた。足はあるけど、全体的に半分透けている。


 幽霊じゃん。

「そうみたいやなあ」

 幽霊、はじめて見た。

「僕も幽霊になったのは、はじめてやなあ」


 九条くんは、とぼけた調子でそう言った。幽霊とはいえ、玄関先で話しこむのもなんなので、家にあがってもらう。

 2人分のお茶を入れてみたけど、幽霊は食事できるのだろうか。少しだけ心配したが、九条くんは特に気にする様子もなくカップに手をつけ、いつも通りにお茶を飲んだ。


「いいモンもっとるやん」


 九条くんはさっきコンビニで買ったタバコをめざとく見つけた。


 勝手に吸わないでよ。

「お前、こんなん吸わんやろ」

 

 まあ、それはそうで、確かに持て余していた。

 幽霊のくゆらす煙は、ふつうの煙より薄く、匂いも淡いみたいだった。


 デート、九条くんのお葬式のせいで中止になっちゃったよ。

「そりゃ残念やったな」


 九条くんはそれだけ話すと一瞬のうちに消えた。幽霊ってそういうものらしかった。薄いタバコの匂いだけが部屋に残った。

 

 

 

 


8.

 九条くんはそれから何度か私の前に現れた。毎日というわけではなく、必ずうちに出るわけでもなく、思い出したかのように「あちら」から「こちら」に来るらしかった。

 ある日は、喫茶店で買ったコーヒーを公園のベンチで飲んでいたら、いつの間にか隣に座っていた。


「いい天気やなあ」


 確かに天気の良い日だった。しょうがないので、近くの自動販売機で缶コーヒーを買って、それを九条くんにあげた。

 2人で公園をぶらぶらと散歩する。だいたい、九条くんが数歩先を歩いているのを、私が後ろから追いかける。九条くんの切り揃えられた後ろ髪が、風に吹かれてさらさら揺れるのが、綺麗だった。


 来週末、Aと3回目のデートなの。

「へえ」

 久しぶりに、Aから連絡が来たの。心配してますって。

「そうなんや」


 九条くんの背中に向かって、話しかける。こちらを向かないけど、たぶんヘラヘラしているんだと思う。

 九条くんは、しばらく歩いてから立ち止まって、ポケットから(私が買い与えた)タバコを取り出して、吸った。私はそれを隣で、ジッと見ていた。


「こんな晴れた日に、頭撃ったら気持ちいいやろうな」


 もともと突拍子もないことを言う人だったけど、今日は私も、そうかも、と思った。

 青々とした木々が眩しく、風がさわやかだった。

 

 

 

 


9.

「デート、どうやった」


 Aとのデートから帰ってくると、やっぱりうちの前に九条くんがいた。お葬式の日と似たような光景だった。


 職場の後輩と付き合うことになったって、報告されちゃった。

「ウワ、おもろ」

 ちっともおもしろくないよ。


 九条くんはケタケタ笑っている。それを見ていたら、私もなんだがおかしくなってきて、一緒になって笑った。


「今日で、たぶん、最後みたいや」


 九条くんが言った。いつもと変わらないように見えるけど、違うらしかった。九条くんは最後の1本のタバコを、味わうみたいに、ずいぶん短くなるまで吸っていた。


「お前とおるの、楽しかったなあ」


 タバコの煙と一緒に、吐き捨てるみたいに言う。


 私は九条くんといるの、結構、苦しかったよ。

 

 私がそう言うと、九条くんは苦笑いして、足元から薄くなっていく。さらさらと砂みたいに空気に溶けていって、消えた。


 私は九条くんがいなくなるのを見届けると、その場にうずくまって、わんわん泣いた。

 九条くんが生きてても死んでても、私にとっては同じなのが、悲しかった。たぶん、私が生きてても死んでても、一緒のはずだった。どうしたって私は九条くんのことが好きで、九条くんは私のものにはならないのだ。

 

高尾ノエルと私

 

 

 

 

 

「日本に行くんだ」

 

 窓から夕焼けが差し込む終業後のオフィスに、私とノエルだけがいた。ノエルは私が調整し終えたたばかりのXチェンジャーを受け取ると、思い出したみたいに話しかけた。


「そう」

「あれ、驚かないの?」

「あなた、自分で思ってるより有名人なのよ。みんな噂してるわ」


 ノエルが日本に行くらしいことは、職員たちの間ですっかり噂になっていた。彼は有名人だったから。今思えば、彼が本部を離れることは予想できたのかもしれない。日本でのギャングラーによるルパンコレクションの不正利用は、フランスまで轟いていた。ルパンコレクションを研究するものとしては心の痛む話だった。それを知ってか、ここのところ、ノエルは今までよりもさらにXチェンジャーの改良に執着し、私たちは日夜試作を重ねていた。


「へめには負担をかけることになるね」


 ノエルはXチェンジャーを大事そうに撫でながら、目を伏せて呟く。ノエルがフランスを発つまで、1ヶ月を切っていた。

 

 

 

 


 ノエルとの出会いは2年前、私が当時所属していた日本の理化学研究所からフランス国際警察本部へ引き抜かれてきたときだ。同じ日本人、同じ年齢、同じエンジニア同士ということで、私の案内役を任されたのがノエルだった。


「僕はノエル。高尾ノエル。気軽にノエルって呼んでもらって構わない。年齢は26歳、血液型はB型、好きな食べ物はエスカルゴ」


 彼は友好的で、親切で、聡明な人物だった。そんな彼に、私が惹かれたのは、まあ自然な形だったのだと思う。

 ノエルは女性を扱うのが上手だった。女性たちはみんなノエルを求めたし、ノエルもそれを拒まなかった。ノエルが関係を持つ女性は日本人だったりフランス人だったりイギリス人だったり、色々だったけど、誰もみんな幸せそうに見えた。あれほど上等な男だから、それも当たり前かもしれない。でもいつだってなぜか、ノエルはきちんと幸せになっているようには見えなかった。

 私もノエルを求めれば、彼はそれに応えてくれただろう。そうしたら、私きちんと幸せになれたはずだ。彼を置き去りにして。私は彼を幸せにする方法がわからなかった。そんなのはあまりにも悲しかった。私は彼を求めなかった。

 しかしながら、そのような感情を抜きにしても、彼は特別に優秀で魅力的な同期だった。私はルパンコレクションの物理法則そのものを研究するのが楽しく、彼は私が見つけた原理を応用して作品にするのが上手かった。VSチェンジャーの開発は、私たちの最高傑作といっても間違いない。彼と働けることは、私にとってとても誇らしかった。

 そんな私の感情を知ってか知らずか、ノエルは私に懐いた。それは決して恋愛とは呼べない、近すぎるような、遠すぎるような、不思議な関係だった。ノエルは気が向いたとき、どうやってか私の部屋に忍び込み、そこで生活をした。私が残業を終えて帰宅すると、ノエルが勝手に私のベッドで寝ていることがしばしばあった。そういうときのノエルは決まって、ノエルのではない、でもノエルに染み付いた女物の香水の匂いを纏っていて、私はそれを遠ざけるように離れた革張りのソファで1人で眠るのだった。

 そんな彼を理解できなくて、彼を叱ったこともある。すると彼は真顔になって私に聞いた。


「へめに怖い顔させてるの、僕で間違ってない?へめが僕のこと見てるって思ってていい?」


 そんなことを言うもんだから、私はますますわからなくなってしまう。ノエルのこと、見てるよ。ずっと見てる。私がそう伝えても、彼はあいまいに笑うばかりだった。


「へめは僕を見てないよ」


 ノエルに諭されると、やっぱり私は彼を幸せにすることはできないのだと感じた。それでも、私のベッドで眠るノエルを見つけるたび、どこかでホッとする自分がいることに気づいていた。

 

 

 

 


 ノエルの予言の通り、ノエルの任されていた仕事は、ほぼ全て私が引き継ぐことになった。彼がいなくなるまでの短い期間、私は彼のこなしていた仕事量をなんとか処理するのに精一杯で、感傷に浸る暇もなかったのは唯一の救いだった。


 ノエルがフランスを旅立つ前日の夜、ノエルのフェアウェルパーティが開かれた。業務を終えた職員は社内のカフェテリアに集まり、シャンパンを片手に話し込んだ。

 フェアエルパーティの開催にあわせて、職場長は私に"日本ではどのように送別会をするんだ?"と聞いた。わたしは日本を離れたときのことを思い出しながら「寄せ書きを書きますね」と答えた。軽率なその提案はなんと採用されてしまい、私は大きく後悔する。ノエル宛の大きな色紙が用意され、私も一筆したためるよう強要された。急かされるほど何を書けばいいのかわからなくなってしまって、結局「健康に気をつけて頑張ってください」と、よくわからないことを書いてしまった。

 ノエルはみんなの前でその寄せ書きと小さな花束を受け取ると、簡単なスピーチを披露し、みんなはそれに静かに聞き入った。私はそんなノエルを、いちばん壁際で、じーっと見ていた。


「ルパンコレクションの研究開発をすることは、僕にとっての喜びでした」


 みんな今回の任務が命がけになることは理解していたが、誰もそれに触れる者ははいなかった。ノエルのスピーチが終わるとみんなは心からの拍手を送り、フェアウェルパーティは終わりを迎え、それぞれまばらに帰路に着いた。


 私はそのままデスクに戻り、引き継いだ仕事の処理を続けた。週末であることやパーティがあったせいで、職場に残っている職員は私だけだった。シャンパンを飲んだあとだったが、自分でも驚くほど仕事は捗った。

 夢中になって仕事を片付けていると、気づいたときには時計は優に日付を超え、空は白み始めていた。ノエルはもう、エックストレインで日本に着いた頃だろうか。明るくなった空を見上げて、ノエルのことを考えた。

 重い体を引きずって帰路につく。肩がこったし、目が疲れた。なんとなく頭も重いような感じがする。

 自宅のドアを開けると、そこにはもちろん誰もいなくて、カーテンが半分だけ開いた窓から朝日が差し込んだ。バッグを勢いよく下ろす音が静かな室内に響いて、私はドタドタとそのまま寝室へ向かうと、そのままベッドに倒れこんだ。昨日交換したばかりの新品のシーツはサラサラして気持ちが良かった。しばらくしてから上着を脱ごうと上体を起こすと、枕元に小さな箱が置いてあることに気がついた。


「なにこれ」


 いい予感はしなかった。私は震える手で小箱を開く。箱の中では、華奢な指輪がキラキラと輝いていた。ゴールドのリングに銀色のダイヤモンドが1つはめられた、ずいぶんセンスのいい指輪だった。


「ばかじゃないの」


 誰からなんて、1人しかいない。どういうつもりなのかとか、なにを考えてるんだとか、聞きたいことはたくさんあった。何にも言わずに、こんなものを置いて出て行くなんて。私は腹が立って、それと同じくらい嬉しくて、ボロボロ涙を流してしまう。


 私はずっとノエルを見てるよ。ノエルは誰を見てるの?へめって、一言言ってくれるだけで、私たちは救われるはずなのに。