諸伏さんと私

 

私は信州大学医学部医学科の法医学講座に所属するの法医学者で、長野県の異常死体の解剖を担当しています。

 

普段の解剖の時は、若手の警察官がご遺体を運んできて、私たちの解剖に同席して、記録だけ取って一旦帰ります。数週間後、諸々の検査結果を含めて私が報告書を作成して、警察に渡します。

 

ある日、はじめて見る警察官がいました。若手という感じではありません。一刻もはやく解剖の結果を知りたくて、来たみたいです。


解剖の最中もあーだこーだ口を出してきて、やりづらいなーと思ったけど、一般の警察官とは違って、法医学の知識がかなりあって、私も楽しくなってきます。その甲斐もあってその事件は無事解決します。

 

それが私と諸伏さんの出会いです。


諸伏さんはその後も時間があれば解剖に顔を出すようになって、私たちは少しず仲良くなっていきます。でも、諸伏さんは遺体の些細な傷には気がつくせに、私のアクセサリーや化粧の変化には全く気づきません。まあ、そんなところも、嫌いではないのですが……。


ある日、諸伏さんが解剖のない日に医局に来て、何かと思ったら異動が決まったから挨拶をしにきたのだと話します。もう会えないのかと寂しく思っていたら、連絡先を渡されて、エ!って驚くと、これからも捜査の相談をさせてもらってもいいですか、と。期待したのが恥ずかしくなって、私はしずしずとその連絡先を受け取ります。


それから、諸伏さんからたまに連絡が来るようになります。諸伏さんが担当している事件のことに、法医学者としてアドバイスをします。

 

ある日、「次の日曜は空いてますか」って連絡がきて、デート?!って一瞬期待しちゃうんだけど、まあ、また何か事件があって、それについて相談なんだろうって、自分に言い聞かせます。散々迷って、結局仕事だしなあって、日曜はスーツを着て待ち合わせに向かいます。


待ち合わせ場所に着いて、一緒にランチをして、映画を見て、そのあと喫茶店に入ります。私が「それで、今日はどんな事件の相談ですか?」って聞いたら、諸伏さんは、ちょっと驚いた顔して、でもそのあと納得したような顔をします。


「まじめなのはあなたのいいところですが、同時に厄介でもありすね」


諸伏さんはそう言って笑うから、私はちょっと、期待しちゃうんだよね。

うたかた

 

 糸永が死んだらしい。


 その春の夜に、智博からメールが来た。何かがあった時に連絡をくれるのは、いつも智博だ。連絡がまめなのだ。


 メールには昨日糸永が死んだこと、明日の夜に別府で葬式が行われることだけが簡潔に書いてあった。それ以外のことは何もわからなかった。


 智博には、わかった、連絡ありがとう、とだけ返事をした。明日は仕事があり、大阪から別府へ駆けつけることは難しい。


 糸永とは、親しくしていた方だと思う。というより、糸永が俺を慕ってくれていた。高校を卒業した後も、たびたび連絡とっていた。ただ、大学を卒業して、社会人になって、忙しくしているうちに、それきりになっていた。


 そういえば、最後に糸永と連絡をとったのはいつだったかと、スマホの履歴をたどる。およそ2年前だった。大学生の頃、俺がギターの弾き語りを動画サイトへアップロードした時に、糸永が感想をくれたのが最後だった。

 

『今回も最高です!』


 糸永からのメッセージに添付されたアドレスをタップして、動画サイトで自分の弾き語りを確認する。1.2分ほど聞いて、すぐに閉じた。


 智博からのメールをもう一度読み返した。現実味のない話だった。あまり考えないようにして、ベッドに入った。

 

 

 

 

 

 

 


「事故だったらしいわ」

糸永の知らせがあったその週末、高校時代の仲間たちと集まった。もともと、会う約束をしていた。当時よく来ていた喫茶店で、俺と夢ノ介はアイスコーヒーを、ゆずと智博はアイスカフェラテを頼んだ。


 葬式の当日、智博は仕事の都合をつけて別府へ駆けつけたのだという。


「急なことだったみたいで、おじさんもおばさんも憔悴してたわ。気の毒にな」


 グラスのフチを指先でなぞりながら、智博が言った。


「糸永くんに会ったの、1年前くらいが最後やな。ゆずと仕事で別府に行った時、案内してもらったわ」


 智博は東京の大学を卒業した後、ピアニストとして世界を飛び回るゆずのマネージャー業務をしている。夢ノ介は、家業を継いだ。俺は、音響機器の営業として働き出して2年目になる。智博とゆずがお得意様になってくれたおかげで、なんとか成績を保てている。それぞれ忙しくしており、こうして集まるのは久しぶりだった。


「虎男は何か聞いてないん?」

「俺?」

「仲良かったやんか」


 夢ノ介がそう言った。俺以外の3人が、じっとこちらを見た。視線に刺されたように、俺は動けなくなってしまう。


「……まぁええけど。それより、これからどうする?」


 俺の沈黙は、ゆずの一言で流された。助かったと思った。みんなは好き好きに話し出した。俺はごまかすようにアイスコーヒーを飲み干した。


 それから1時間ほど話し込んだ。糸永のことを話したのは、はじめの数分だけだった。かえって、あまり話さないようにしていたのかもしれなかった。また会おうと、みんな口々に約束をして、解散した。

 

 喫茶店からの帰り道には、雨が降っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 家に帰ると、玄関の前に糸永が立っていた。ドアの前の小さな水溜りから、生えているみたいだった。足はあるが、全体的に色が薄くて、糸永のむこうに景色が透けて見えている。


「ユーレイ?」

「そうみたいです」

「ユーレイ、はじめて見たわ」

「僕も、ユーレイになったのははじめてです」


 糸永はとぼけた調子でそう言った。ヘラヘラとした話しぶりは、生前のままだった。


「水を用意してもらってもいいですか?」


 糸永は変なことを言う。


「水?喉、渇いたか?」

「いえ、そうじゃなくて」


 糸永の指示通りに、玄関に糸永を置き去りにしたまま、風呂へ向かった。風呂桶に水を張ってリビングまで運び、テーブルの上に置く。玄関の方を向き直ると糸永はいつのまにか消えていて、振り返ると、風呂桶から糸永が生えてきた。


「わあ」

「うふふ」


 糸永は水を触媒にして移動するのだと言う。コップ一杯ほどあれば、十分らしかった。


「気がついたら虎男さんのところにいたんですよねえ」


 糸永はしみじみとそう言った。マグカップにお茶を注いで渡すと、糸永はごく自然にそれを受け取って口にした。ユーレイも食事はできるらしい。


「なんかやり残したことでもあるんか」

「うーん、そういうワケでもないんですけど」


 糸永が死んだのはつい最近のはずなのに、糸永のユーレイは出会った頃の面影を宿していた。服装も、あの頃のままだ。糸永は、見る人の考えが反映されているんじゃないかと言った。確かに、成人してからの糸永の姿を、俺はろくに思い浮かべることができなかった。


「虎男さんが元気そうでよかった」


 死んだ奴が他人の体調の心配かい、とつっこもうとしたが、糸永はそれだけ話すと、一瞬のうちに消えた。ユーレイってそういうものらしかった。ちゃぽん、と風呂桶の水面がはねた。

 

 

 

 

 

 


 それから、糸永は何度か俺の前に現れた。毎日というわけではなく、思い出したかのように「あちら」から「こちら」に来るらしかった。


 還っている時には何をしているのかと聞くと、糸永は「別に」とそっけなく答えた。不機嫌なのかと思ったが、笑っていた。


「自分でもよくわからないんです。うとうとしているみたいな感じでしょうか」


 糸永は水から出てくるけど、濡れているわけではない。シャボン玉みたいな薄い膜が糸永の皮膚全体を覆っていて、触るとつるりとしている。


 糸永のユーレイに出会ってから、約1ヶ月が経過していた。リビングには風呂桶が常備してある。たまに水を継ぎ足す。リビングにいない時は、たいてい風呂にいる。


 帰ると話し相手がいる生活は悪くなかった。昨日見たテレビの話や、最近聴いている音楽のこと。なんてことない話をだらだらとするのは、学生時代に戻ったようで楽しかった。


「歌はもう、歌わないんですか」


 ある日、糸永が聞いた。視線の先では、ギターケースが埃をかぶっていた。


「虎男さんの歌、好きでした」


 糸永が続ける。糸永は昔から、好意を包み隠すことがない。そういうところが、俺は少し苦手だった。


「そうやなあ」


 俺は否定も肯定もせずに、なあなあに返事をした。糸永もそれ以上追求しなかった。

 

 

 

 

 

 

 


 糸永と休日に外出することも少なくなかった。外出する時は、水筒からコップに水を注ぐと、そこから現れる。熱湯や、ジュースやコーヒーからは、出てこない。


 外出先の公園の売店で、ラムネを買う。透き通った瓶の中で、ビー玉がキラキラ光っている。初夏らしく、天気の良い日だった。木々は青々しく、吹く風はぬるかった。


 公園のベンチに腰をかけて、水筒からコップに水を注ぎ、ベンチに置いておく。しばらくぼうっとしていると、いつのまにか隣に糸永が座っている。


「死んだ日も、こんな天気でした」


 糸永が死んだことについて話すのは、はじめてのことだった。 


「死んだ時って、どんな感じだった?」

「どんな感じだったと思います?」


 糸永は、ヘラヘラしていた。糸永って、こういうところがある。肝心なことは、話そうとしない。


「お見合いさせられたんですよね」


 思いもよらぬ言葉が出てきて、思わず糸永の方を見る。糸永は俺の方を見ずに、空を飛んでいる鳥なんて見ている。


「お見合いって、あの。結婚相手を決めるやつ?」

「それ以外のお見合いがあるんですか?」


 糸永は馬鹿にするみたいに笑った。糸永って結構、人を見下すようなところなあったなあと、その顔を見て思い出した。


「地元の市議会議員のお嬢さんでした。落ち着いていて、悪い人じゃなかった」


 糸永の迫力がすごくて、俺は黙ってしまう。


「まあ、もう関係ない話ですけどね」


 ユーレイなんで、と糸永は笑った。俺は何も言えずに、ラムネを飲み干す。糸永は音も立てずに、すぅっと消えた。

 

 

 

 

 

 

 


 その日は朝食をとらずに、水ばかりをガブガブ飲んでから部屋を出た。機材の受け渡しのため、智博に会う約束があった。


「虎男、最近つかれとるんちゃうか」


 智博は俺の顔を見るなり言った。


「えっ?」

「疲れが溜まってるんやろ」


 確かに、ツかれているのかもしれなかった。最近、妙に眠かった。


「しっかり休めよ」


 智博はそう言って俺の肩を叩いた。智博は優しい男だ。昔からそうだ。


 智博との取引が終わった後、そのままの足で家へ帰った。リビングに糸永がいなかったから、風呂を覗いた。最近、帰宅して糸永の存在をを確認することが習慣づいていた。


 糸永はコップに浮かせた花びらのように、ふわりと浴槽に浮きながら眠っていた。そのままじっと糸永を眺めていると、しばらくして糸永が眼を開けた。


「おかえりなさい」

「ただいま」


 俺は洗い場にしゃがみこんで、そのまま糸永と話し込んだ。糸永のいる風呂場は、なぜか底冷えがした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨の日は、糸永はどこにでも現れる。その日も、仕事の帰り道に、糸永は現れた。糸永に傘をさしかけると、糸永は驚いた顔で俺を見た。


「相合傘なんてはじめてです」


 糸永にはつるりとした膜があって、水を弾くので濡れないのだが、自分ばかり傘を差しているのは、さすがに気が悪い。小さな傘なので、俺も糸永も傘から肩がはみ出している。触れ合う距離だが、糸永に体温はない。ユーレイって、そういうものらしい。


 そういえば、と糸永は口を開いた。


「この前、柏木さんに会いましたよ」

「いつ?ていうか、智博も、糸永のこと見えるんか」


 俺は驚いた。先日会った時、智博からそんな話は聞かなかった。とはいえ、俺も糸永のユーレイと暮らしていると、誰にも話していないのだが。


「虎男をどうするつもりだって、叱られちゃいました」


 叱られたと言う割に、糸永はなんだか嬉しそうにしている。


 2人で並んで家まで帰る。

 

 だんだん、糸永から離れるのが、つらくなってきたようにも思う。このままではいけないと思っているが、だんだんその思いさえ薄れてきている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 海が見たいと、糸永が言った。バイクで30分ほどかけて、海辺にたどり着いた。


「別府の海とは、ずいぶん違いますね」


 糸永は透けた足で海に浸かった。糸永が歩くと、海面に波紋が広がる。周囲に人はいなかったが、もし俺以外の人が見たら、魚が跳ねているようにでも見えるのだろうか。


 俺は砂浜から海と糸永を眺めている。波の音を聞いていると眠くなってくる。意識がぼんやりと、遠のいていく。


「虎男さんもこっちにきませんか」


 糸永が俺に向かって左手を差し出した。俺は糸永に誘われるままに、身を乗り出した。靴が濡れたが、かまっていられなかった。膝より上が水に浸かるあたりで、糸永が言った。


「本当にただの事故だったと思う?」


 糸永がじっと俺を見る。瞳は碧色に光っている。俺はゾッとして、糸永の手を振り払う。


「俺は、そっちにはいかない」


 俺がそう言うと、糸永はつまらなそうに瞳を伏せた。糸永のまつげが束になって影を作る。


「そういうところが好きでした」


 糸永は、そういうと、砂みたいにサラサラと、海に溶けて消えていった。


 それを見届けたところまでしか、覚えていない。どうやら、気を失ったらしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると、病室にいた。1週間ほど、意識が無い状態で、点滴から栄養を摂取していたらしい。


 意識不明で海岸に倒れていたところを、たまたま通りかかった人が助けてくれたのだと、医師から説明された。目が覚めたとき、父も母も姉も、大泣きしていた。


 スマホを確認すると、友人たちから、安否を心配する連絡が入っていた。糸永からも、メッセージが1通届いていた。


「大丈夫になりましたか?僕は僕で、元気です。ヘンシンフヨウ」


 返信不要なので何も返さなかった。


 退院した後、ギターをはじめた。休日に細々と、好きな歌を歌っている。もう少し満足に弾けるようになったら、海に行って弾いてみようと考えている。

わらひびづめ(三角、関崎、照)

 

(三角)

 

「茜ちゃん、ギター上手くなったね」

 

三角さんがボソッとそんなことを言うものだから、私は驚いて、せっかく褒められていたギターを練習していた手を止めて立ち上がってしまう。


「本当ですか?!」

「私は嘘をつかないよ」


隣に座ったまわたはまの三角さんは、私が急に立ち上がったことに特に動じるわけもなく淡々と答えた。私はなんだか少し恥ずかしくなってしまい、プリーツの裾を少し直してから着席しなおした。

来月の文化祭を目標に、クラスメイトとガールズバンドを立ち上げて約一ヶ月が経過しようとしていた。当時、音楽の経験が全くないにも関わらず友人の勢いに乗せられてギタリストを快諾してしまった私は、慌てて駅前の中古楽器ショップに駆け込んで、店員さんのおすすめするギターを購入した。そのときの店員さんが三角さんである。

初めて見た三角さんは、ロン毛で愛想も悪いしぽやんとしているところがあって、ちょっとうさんくさいな、と思ってしまった。けれど私が来店した経緯を話すととても親身になって相談に乗ってくれたし、よく見るとなかなかのハンサムだった。楽器を購入した後も、私は何度もこのお店に来ては、こうして三角さんにギターの教えを請うている。三角さんの教え方はたぶんとても上手で、この一ヶ月で初心者にしてはまずまず聴ける演奏くらいにはなってきたはずだった。


「ただサビのフレーズはまだまだ」

「うぅ」

「今日はもう遅いから家に帰って自主練しなさい」


三角さんはそう言い残すと、立ち上がってレジの奥に消えていった。私はその背中に向かって「ありがとうございしまたぁ」と声をかけて、ギターの片付けをはじめる。

制服のスカートのポケットには、文化祭の入場チケットが入っている。サビのフレーズをつまづかずに弾けるようになったら、三角さんに渡す予定だ。

 

 

 

 

 

(関崎)

 

「結婚しよう」


約一ヶ月ぶりに再会した秀治は、私に銀色の指輪を差し出しながらそう言った。

秀治とは付き合って四年になる。秀治がまだテレビ局員だった頃、番組制作会社のアシスタントディレクターをしていた私が彼に一目惚れをして声をかけたのがきっかけだった。

ここ数ヶ月、私は仕事に追われ職場に寝泊まりする日々が続いており、秀治と会う頻度も減っていた。久々に秀治から送られてきたメールには「這ってでも来い」という脅迫めいたメッセージと、レストランの予約時間と住所のみが記されていた。なんとか仕事を終わらせて指定された場所に来てみると、とてもオシャレなレストランだったので驚いた。仕事終わりのままここへ駆け込んだ私は、結局五分程遅刻したし、服装もパーカーにジーンズというだらしのない格好だったのでかなり焦った。受付のお姉さんに「お連れ様がお待ちです」と案内された先は個室だったので、服装のことを気にする必要はなさそうで少しだけ安心した。もしかしたら秀治がそういうところを気にしてくれたのかもしれなかった

 

「えっと……」


秀治の近況を聞きながらおいしい食事を楽しみ、デザートのシャーベットを食べているタイミングでのプロポーズだった。メッセージを受け取ったときから、なんとなくそんな気はしていたのだ。だって私は秀治の夢を知っていたから。だからこそ素直にうんと返事ができなくて、私はもじもじしてしまう。


「私、いま仕事が楽しいんだよね」

「奇遇だな。俺もだ」

「来期から深夜のバラエティ番組のディレクターもさせてもらえることになったから、これからもっと忙しくなると思う」

「そりゃめでたいな」


私が指輪を受け取ろうとしないので、秀治は一度ケースをテーブルに置いて、なんでもないみたいにシャーベットをパクパク食べはじめた。私も秀治と同じようにスプーンを進めるけれど、きっとおいしいはずなのに、なんだか混乱して味はよくわからなかった。

嬉しくないはずがないのに、秀治になんて伝えたらいいかわからなくて、私はポロポロ泣けてきてしまう。


「私、秀治が望むような幸せな家庭、作れる自信ないよ」


自分で言っていて、情けなかった。

秀治の夢を知っていた。お笑いで成功して、幸せな家庭を築き、庭付き一戸建てに住むんだと、出会った頃から繰り返し言っている。そのために強い決意でテレビ局を辞めたことも。

それでも私にも夢があった。今の仕事はかなりキツいけど楽しい。大きな仕事を任せられるようになったことも嬉しかった。秀治と一緒に過ごす時間はどんどん減っているけれど、それ以上のやり甲斐を感じていた。

秀治は呆れたようにため息をつく。それから、泣いた私を慰めるわけでもなく、シャーベットをモリモリ食べながら、自信満々に笑うのだ。


「それでも俺が好きなのはお前だけなんだから、しょうがないだろ」


秀治がそんなことを言うから、私は我慢できなくなってわんわん泣いてしまう。


「私も秀治が好きです」

「知ってるよ」


シャーベットを食べ終わった秀治は、手を拭いてから私の左薬指に指輪をはめた。一粒のダイヤモンドがキラキラと眩しく光っている。この人と幸せになりたいと、心から強く思った。

 

 

 

 

(照)

 

大通りから少し離れた横道に佇む、この喫茶店の雰囲気を気に入っていた。赤いソファ、センスの良い陶磁器、レトロなBGM、おいしいナポリタン。数年前、会社から帰る途中に偶然ここを見つけた時から、毎週末、仕事終わりにここで食事をするのが私の楽しみになっていた。ここで過ごす穏やかな時間は、私にとって何よりの贅沢だ。

今日の気分は分厚いシナモントーストとアメリカン。私の注文を受けて、マスターが少し離れたカウンターの奥でコーヒーを淹れはじめる。ここのコーヒーは出来あがるまでに時間がかかる。鞄の中からお気に入りの小説を取り出して、到着を待った。


「お待たせしました」


声をかけられて小説から目線をあげると、はじめて見る店員さんだった。スラっとした体型に、黒いエプロンが良く似合っている。まだ二十才くらいだろうか。切れ長の目が印象的な男の子だ。


「葵ちゃん。彼、先週からウチでアルバイトしてる照くん」


マスターがカウンターの奥から私に声をかけた。普段はマスターと奥さんでお店のやりくりをしていたが、このたび奥さんが膝の手術で入院することになり、急遽アルバイトを採用したのだという。


「紀月照です。葵さんは常連さんだってマスターから聞いてます」

「いや、そんな」


照くんはシナモントーストとアメリカンを順番にテーブルに並べながら、控えめに笑った。人当たりの良い感じの笑顔だが、京都なまりの話し方はなんとなく色っぽい。


「お店の先輩として、色々教えてくださいね」

 

照くんは注文を並べ終わった後も私の隣に立ってニコニコしている。なんだか居たたまれなくなった私は、シナモントーストを一口かじる。いつもより少し砂糖が多いみたいだった。照くんが作ったのかもしれなかった。

おいしいです、と伝えようと私が照くんの方を向いたのと同時に、照くんが人差し指で私の髪の毛を一束すくい上げたので、私は口を開けたまま固まってしまう。


「葵さんの髪、綺麗ですね」


「照くん、3番テーブルの注文お願い」とマスターから声がかかると、照くんはニコッと私に笑いかけてそのまま手を離して仕事に戻った。私は何が起こったのかわからなくて固まったまま、コーヒーだけが冷めていく。

この店でもう穏やかな時間は過ごせそうにない。触れられたところが、熱かった。

 

緒方が特殊詐欺に遭う話

 

 

 複数の高齢者から現金約460万円をだまし取ったとして、熊本地裁は男に有罪判決を言い渡した。

 判決を受けたのは熊本市の緒方尊比古(25)。判決によると緒方被告は20XX年6月から20XX年11月にかけて、不正に入手したキャッシュカードを使って現金を引き出すなど、特殊詐欺に加担したとして窃盗の罪に問われていた。

 裁判で緒方被告は、犯行の動機について「恋人との結婚資金のためだった」などと説明。

 裁判長は「社会的弱者の財産を狙った手口は悪質で重大」などと指摘した一方で、「反省と謝罪の言葉を述べ、また酌むべき事情がある」と犯行が脅され、指示されたものであることを考慮した。懲役3年6ヶ月の有罪判決を言い渡した。


熊本〇〇新聞より引用

 


 


 その日は、古賀の結婚式だった。

 古賀は大学を卒業後、社会人3年目の春に、学生時代から交際していた女性と結婚した。

 結婚式は素晴らしいものだった。挙式と披露宴を終え、緒方と梅崎、糸永は二次会の会場へ移動した。立食形式のパーティだった。

 パーティがはじまってしばらくしてから、緒方たちのテーブルに古賀が顔を出した。その時、どうしてそんな話になったのかは覚えていないが、そんな話になったのだ。

 

「結婚って、そんなに金がかかるのか」


 緒方が聞き返すと、古賀はなんでもないみたいに答えた。


「そう、300万。びっくりだよね。貯金、ほとんどなくなっちゃったよ」


 古賀は、へなへなと笑っていた。少し酔っているみたいだった。

 300万。緒方の人生では、聞いたことのない額の数字だった。


「明日から新婚旅行でハワイなんだ」


 明らかに浮かれた古賀は、話もそこそこに、緒方たちに手を振って新婦のもとへと戻っていった。新郎は、忙しいらしかった。

 会が終わって、緒方と梅崎と糸永は帰路に着いた。


「古賀、幸せそうだったな」


 駅に向かう途中で、梅崎が言った。緒方と糸永もそれに同意した。

 


 

 

 緒方が梅崎と付き合いだして、もう6年になる。高校を卒業する時に、緒方から告白をした。

 緒方は、次の梅崎の誕生日にプロポーズをしようと考えていた。

 だから緒方は、古賀の話を聞いて焦った。緒方に貯蓄はなかった。

 緒方は、家族経営で牧場の仕事をしている。経理はからきしのためほかの兄弟に任せているが、家畜の世話は緒方の得意とするところだった。決して裕福ではないが、十分生活できたし、幸せだった。

 結婚にそんなにお金が必要だとは。緒方は焦った。

 実際は、2人で暮らすだけなら、そこまでのお金は必要ないはずだ。式だって、あげなければお金もかからない。

 しかし、緒方は考えたことがなかったから、わからなかった。結婚にはお金がかかると、古賀に言われるまま信じた。

 緒方は、休日に働くことのできるアルバイトを探しはじめた。

 緒方がまずはじめたのは、夜間の道路工事のアルバイトだ。近所のコンビニエンスストアに置かれていた求人誌を見て、牧場の仕事を続けながらできる仕事が、それだった。睡眠時間は減るが、若く体力のある緒方にとって、それは大したことではなかった。

 しかし、これがよくなかった。


 その夜の現場は、駅前の繁華街だった。工事の休憩中、通りすがりの男が話しかけてきた。高校時代の同級生のAだった。

 

「緒方、こんなところで働いてるのか」


 Aとは親しくなかったが、顔は覚えていた。Aがやけに親密そうに話しかけてきたため、少しばかり世間話をした。恋人と結婚するための費用を稼ぐのだと話すと、Aはそうかそうかと、作ったような顔で笑った。


「俺がもっと簡単に儲かる仕事を紹介してやるよ」

 


 


 Aの最初の指示は、実に簡単なことだった。スマホを貸すだけで1万円がもらえるのだという。ゲームのイベントで大量のスマホが必要だから、との説明だった。

 指示された通り、駅前のコインロッカーにスマホを入れる。数日後に同じロッカーを確認すると、スマホの返却とともに一万円がいれられていた。

 こんなことで金がもらえるのかと、拍子抜けした。

 次の仕事を頼まれたのは、それから1週間後だった。Aから電話があった。


「暗号資産の取引をしたい顧客のニーズに応える仕事をしてるんだ。緒方の住所や名前、連絡先を貸してほしい」


 Aから1時間ほど、電話で説明を受けた。仮想通貨については全く知識がなかったこともあり、相手が次々に繰り出す専門用語、巧みな弁舌にのまれてしまった。

 Aは親切だった。緒方と梅崎のことを心配するような話しぶりだった。


「2人が結婚できるように、応援してるよ」


 緒方は、すっかりAを信頼していた。

 自宅の住所を相手に伝えると、翌日、自宅に宅配便が送付されてきた。受け取って中身を確認することなく、Aの指示に従い、公園で氏名不詳の人物に宅配物を手渡した。報酬として2万円を受け取った。

 


 


 秋の初め、古賀と会った。古賀が熊本まで遊びに来てくれた。梅崎と結婚するため、アルバイトを頑張っている話をしたら、古賀はやけに神妙な顔をした。


「それ、梅ちゃんには相談したの?」


 古賀はきっと喜んでくれると思っていた。しかし、返事は不穏だった。梅崎に相談はしていない。驚かせたいからだと伝えると、古賀の表情はますます曇った。


「それ、詐欺かもしれない」


 詐欺?詐欺っていうのは、人を騙すということだ。緒方がやったのは、スマホを預けたり、住所を教えたり、荷物を運んだだけだ。詐欺をした心当たりはなかった。


「そんなことでお金がもらえるなんて、おかしいと思わん?やめた方がいいと思う」


 古賀が言った。確かに、それはそうだった。


 古賀が帰った後、胸騒ぎがしてAに電話をした。そういえば、こちらから電話をかけるのははじめてだった。いつも用事がある時だけ、Aが連絡をくれるのだ。


「これ、大丈夫なんだよな?」


 繋がるや否や、緒方は聞いた。


「急にどうしたんだよ。大丈夫だよ」


 Aは緒方の不安を吹き飛ばすかのごとく笑った。冷たいAの笑い声を聞いて、緒方は、自分の鈍っていた感覚が、研ぎ澄まされていくのを感じた。


「もう、この仕事はやめる。牧場の仕事だけにする」


 Aがなんと言うか、緒方は少し恐れた。


「そうか、わかった」


 しかし、Aの返事は予想外にあっけないものだった。


「悪いけど、最後にひとつだけ頼まれてくれないか」


 Aはそう言った。これが最後だと、しぶしぶ引き受けた。

 いつも通り、荷物を運ぶ仕事だった。夜の公園に、バイクで向かった。指定された公衆トイレに荷物を置く。

 トイレを出たところで、後頭部に衝撃が走った。目の前が一瞬真っ暗になって、気がついたら地面に倒れていた。背後から誰かに殴られたのだ。地面でうずくまっていると、頭上から男の声がした。


「やめられるわけねーだろ。お前が今までやってきたことは全部詐欺だよ。やめたらお前の恋人を殺すからな」


 恐ろしい声だった。いつもとあまりに違うので理解するのに時間がかかったが、おそらくAの声だった。

 ゆっくりと後頭部を触ると、出血している。

 スマホに受信がある。匿名で使用できるアプリだ。このアプリも、Aにダウンロードするように指示されたものだった。アプリを開くと、梅崎の写真が受信されていた。すべてバレているのだ。

 


 


「タタキに入れ」

「タタキ?」


Aから2週間ぶりに連絡が来た。ちょうど後頭部の傷が治りかけていた時だった。


「これだからバカは困る」


Aは電話越しでもわかるほど心底ばかにしたように深いため息をついた。緒方と梅崎の結婚を応援していた時のAとは別人のようだった。

 タタキとは、強盗のことだった。


「そんなことできるわけない」


 緒方が拒否すると、Aが続けた。


「お前の恋人を殺すからな」


 Aから自宅へ、小包が送られてくる。侵入先の住所、ガムテープや軍手と一緒に、強盗のマニュアルが送られてくる。


『インターホンを押して、火災報知器の点検だと説明し、家に入りましょう』


 ポップな字体の横には、イラストまで添えられている。


『元気!笑顔!この2つでお年寄りはあなたを信用します』

 


 


 その日の夜、Aに指定された家まで来た。寝たきりの高齢男性と、その妻の二人暮らしなのだと聞いていた。

 その家の前で、緒方は梅崎に電話をした。これまでの出来事、繰り返した犯行、梅崎を殺すと脅されていたこと、余すことなくすべてを明かした。


「バカだとは思ってたけど、こんなにバカだとは思わなかった」


 電話口の向こうで、梅崎が泣いていた。


「自首しよう」


 強盗には入らず、自宅に戻った。Aからは何度も電話がかかってきていたが、無視した。

 自宅に帰ると、パトカーが止まっていた。梅崎が、警察に通報していたのだ。そのことは、逮捕後に梅崎から届いた手紙で知った。

 

 


 

 


 20XX年、熊本地裁は懲役3年6ヶ月の実刑を言い渡した。

 緒方は控訴をせず、判決が確定した。

 

 

 

 

 

 

きょおとも

 


 山里祭が終わってしばらくした後の放課後に、白谷くんに呼び出された。待ち合わせ場所は、山里高校と里央高校を線で結んだちょうど真ん中あたりにある、図書館だ。以前、はやりの小説を借りるために、来たことがあったから、道には迷わなかった。

 


「智さん、こっちこっちー!」

 


 館内をうろうろしていると、後ろから呼び止められた。振り向くと、自習スペースのところに、白谷くんがいた。既に机の上に教科書を広げて、2人分の座席を確保している。俺は白谷くんに促されるまま、横に腰掛ける。

 


「来週テストなんで、部活は休みなんすよ」

 


 山里もテスト期間だ。どこの高校も同じらしい。学生向けに解放された自習室は、さまざまな制服を着た高校生で溢れていて、騒がしい。

白谷くんは、机の上の数学の教科書を俺に見せつけた。

 


「智博先生!頼りにしてます」

「俺、暇ちゃうねんぞ。受験生やし」

「智さんは勉強できるから余裕だってゆずさんに聞きました」

「ゆずのやつ……」

 


 確かに志望校の模試の判定は良い方だが、そんな情報まで共有されているとは。俺はがっくしと肩を落とす。白谷くんはそんな俺を無視して調子良く続ける。

 


「まあいいでしょ。教えるのも勉強になりますよ!」

 


 白谷くんは、ニコニコしている。相変わらず、人好きのする笑顔だ。こんなふうに頼まれては、俺でなくても断りづらいだろう。白谷くんには、そういう魅力があった。

 


「まあいいけど、なんで俺やねん」

 


 わざわざ他校の上級生を呼び出さなくても、里央高校にも頼りになるやつはいるだろう。まあ、頼まれると断れない気質に、つけこまれているという自覚はあるのだが。

 俺はため息をついてうつむく。うつむいたところを、白谷くんが覗き込んでくる。

 


「ビシッと言わないとわかんない感じですか?」

 


 温度が伝わってくるくらいの近さで、白谷くんがそう笑うので、俺はのけぞった。白谷くんを睨むと、心なしかさっきよりもニコニコしている。

 


「……次誘うんなら、映画館とかにしてや」

 


 図書館デートなんて、わかりづらい。期待する方だって、期待しきれないというものだ。

 俺がそう言い返すと、白谷くんは、一瞬驚いた表情をして、それからまた笑った。

 


「いいっすねー!あと、水族館も行きません?」

「まずはテスト終わってからな」

 


 白谷くんの笑顔を見ていると、頼られるのも悪くないと思う。来週のテストの後、どこに行こうかと考えながら、教科書に向き直る。

◼︎

 

 


川北くんと付き合って、1ヶ月が経つ。


川北くんは、大学に入学した頃から目立っていた。カッコよくて、話が面白くて、何かと話題の中心にいる人だった。川北くんをいいなと思っている女の子は、私の他にもいた。はやくしないと、誰かと付き合ってしまうかもと、必死だったから、授業が終わった後に、私から川北くんに声をかけたのだ。


「2人で、どこか出かけようよ」


川北くんは、目を丸くした。クラスメイトとはいえ、ろくに話したことのない私に、デートに誘われたから、驚いたのだ。


「いいよ」


川北くんは、そう言って笑った。私のことを、少し面白がっているふうでもあった。

 

 

 

 


その週の日曜日、昼過ぎに駅前に集合した。映画を見て、夕食を食べる。そういうのがいいと、雑誌に書いてあったのだ。


「山田は、こういう映画が好きなの」


映画は、海外のアクション映画だ。私が2枚、チケットを用意しておいた。


「アクションは、わかりやすいから好き」


映画は派手で、愉快で、面白かった。アクション映画は、まあまあ好きだ。わかりやすいから。難しい映画は、苦手だ。


夕食は、映画館のそばのイタリアンレストランを予約していた。この後どうする?と聞かれたので、夕食を予約してあると伝えると、川北くんは笑った。

 
「こんなふうに、女の子にエスコートしてもらったの、はじめてだな」


確かに、やりすぎたかもしれなかった。私は結構、かっこつけだ。失敗したくなくて、準備したのだ。


夕食を終えると、川北くんはウチまで送ってくれた。今来た道を戻る川北くんの背中に向かって、私は呼びかけた。


「私、川北くんのことを、いいなと思ってる。だから、付き合ってほしい」


川北くんが、振り返る。驚いた顔をして、それから、笑って答えた。


「いいよ」


こうして私たちは交際を開始した。

 

 

 

 


川北くんと付き合って、1ヶ月が経つ。手は、繋いだ。キスもした。エッチは、まだしていない。


はじめてのキスは、川北くんのサークルの飲み会の帰り道だった。


川北くんは、お笑いのサークルに入っている。週末に川北くんの出演するライブがあると、クラスメイトから聞いた。誘われたわけではなかった。でも、ぜひ見たいと思って、1人で見に行った。誘われたわけではなかったので、コッソリ行った。


ライブは、面白かった。川北くんが1番面白かった。満足して帰ろうとしたところに、川北くんから連絡が来た。


「山田は来ると思ってたんだ」


別に舞台の上から私を見つけたというわけではないらしかった。


「どうして来ると思ったの」

「山田は、真面目だから」


なんとなくの流れで、私もライブの打ち上げに参加することになった。


川北くんは、お酒を飲まない。飲めない体質なのだという。でも飲み会には大抵いる。付き合いがいいのだ。


コーラしか飲んでないくせに、酔ったみたいなふりをして、私の腕を掴んで、みんなの輪をコッソリ抜け出して、そのあたりの路上で、私たちはキスをした。私にとっては、うまれてはじめてのキスだった。満天の星空の下でとか、見渡しの良い夕焼けの丘でとか、観覧車のてっぺんでとか、そういうことを夢見ていたけれど、みんなの輪をコッソリ抜け出してするキスは、なかなかどうして、悪くなかった。川北くんのキスは、流れるようで、なんだかすごく自然だった。


男の子と付き合うのがはじめてだということは、川北くんと付き合い始めた時にすぐに伝えた。そういうことは隠すべきではないと、雑誌に書いてあったのだ。


川北くんが女の子と付き合うのがはじめてではないということは、川北くんと予備校が一緒だったクラスメイトが言っていた。こういうことは、聞いていなくても、勝手に耳に入ってくるものだ。


川北くんは、またウチまで送ってくれた。デートのたび、川北くんはウチまで送ってくれる。


「川北くんが1番おもしろかった」


道中、私がそう言うと、川北くんは満足そうに笑った。


「まあ、そうだろうなあ」


川北くんは冗談めかしている。


「じゃあ」


玄関先まで私を見送ると、川北くんはそのまま帰って行った。川北くんがウチにあがったことは、ない。私の緊張が、伝わっているのかもしれない。

 

 

 

 


川北くんと付き合ってから、1ヶ月経つ。川北くんに、好きだと言われたことは、まだない。


「川北くんは、私のどこが良いのだろう」


クラスメイトに、聞いてみる。こういう恋愛にまつわることは、クラスメイトに聞くのが1番と、相場が決まっている。


「私から見ていると、川北くんはそれなりに、梓を気に入っているように見えるけど」

「そうかなあ」


友人は少し、めんどくさそうな感じもある。


「1度も好きって言われたことないし」


まだセックスもしたことないし。これは、恥ずかしくて、相談できない。


「大学生なんて、そういうものよ」


ソウユウモノか。エッチをしないと振られてしまうのかな。嫌だな。川北くんと別れるのは嫌だ。エッチをするのも、まだ、嫌だ。

 

 

 

 

 

今日は、川北くんのウチに誘われている。夕食に鍋を作って、2人で食べる。時間も遅いので、もしかしたら、泊まることになるのかもしれない。いちおう、カワイイ下着をつけている。


駅前で集合する。川北くんのウチにいくまでの道中にあるレンタルビデオショップで、映画を借りる。


後から聞いたら、川北くんはアクション映画をそんなに好きではないらしい。2人で相談して、アメコミを借りた。


適当に鍋を作って、適当に食べた後に、借りてきた適当な映画を見る。アメコミならわかりやすいかと思っていたけれど、シリーズものらしく、さっぱり内容がわからない。


全然わからないので、チラリと川北くんの方を盗み見る。目があって、流れるようにキスをする。そのまま、ベッドに押し倒されていく。すごく自然に。


「川北くんは、私のどこが良いの」


押し倒されながら、私は聞いた。川北くんは、ポカンとしている。しばらく黙ってから、話し出した。


「山田は覚えてないだろうけど」


川北くんはそう前置きした。


「はじめてデートした時の帰りに、鼻歌を歌ってただろう」

「はあ」


川北くんの言う通り覚えていないが、そんなこともあったかもしれない。


「その曲が『心の瞳』だったのが、なんかよかったんだよな」


なんだ、それ。


川北くんの顔を見て、笑った。川北くんも、笑っていた。なんだかそういう雰囲気ではなくなってしまって、ベッドに並んで天井を仰いだ。


その日はそのまま寝た。アメコミの映画は結局何もわからなかった。カワイイ下着の出番もなかった。今の私には、これくらいがちょうどよかった。

いとしい

 


高校卒業を控えた春の放課後に、糸永くんと待ち合わせをしていた。糸永くんに、園田さんと一緒に行きたいところがあるからと、誘われたのだ。

あれから、私たちは友達になった。もちろん「そういうこと」はしていない。ただの友達だ。とはいえ、塾で会った時に話すくらいで、こんなふうに約束して会うのは、はじめてだった。

夕方、動きやすい格好に着替えて、別府駅に集合。糸永くんの言う通りにして駅前で待っていたら、目の前にバイクが立ち止まった。運転手がヘルメットを脱いだ時、それがはじめて糸永くんだとわかった。

 


「糸永くんって、バイク乗るんだ」

「意外?」

 


制服を着ているので、よく見れば糸永くんだとわかったはずだが、糸永くんとバイクが結びつかなかったので、驚いた。

 


「意外かと言われると、難しいな。私はもう、糸永くんのこと全然わからないし」

 


私がそう答えると、糸永くんは大声で笑った。私のあけすけな物言いが糸永くんのツボに入ったみたいだった。

糸永くんは私にぽいっとヘルメットを手渡した。服装を指定してきたあたり、そうだろうとは思っていたが、後ろに乗れということらしい。確かに制服のまま乗るのは難しそうだった。

私は糸永くんに教わりながら、ヘルメットをかぶって、おずおずとバイクに跨る。どこにつかまったらいいかわからず手をふよふよさせていると、糸永くんがそれを掴んで自分の腰の方に引き寄せた。

 


「つかまって」

 


もちろん私は、すごくドキドキしている。私たちは友達だったけど、私はあれからずっと糸永くんのことを好きだった。

三十分くらい走って着いたのは、十文字原展望台だった。別府の街並みと別府湾を見渡せる、市内でも有名な展望スポットだ。小さい頃家族と来たことはあるけれど、こんなふうに男の子と来るのははじめてだった。

糸永くんは私を連れてきたくせに、何にも言わずに、ずっと街並みを見ている。私はその隣で、はじめは同じように街の灯りを眺めていたけど、だんだん飽きてしまって、それからは糸永くんの横顔を見ていた。じいっと見つめ続けていたら、ふいに糸永くんが私の方に向き直って、笑いかけた。

 


「園田さん、キスしたそうな顔してる」

 


糸永くんはかわいい顔で私をからかった。まあ、確かにそうかもしれなかった。

 


「したいけど、しないよ。だって、糸永くんって私のこと全然好きじゃないもん」

 


私は、糸永くんとはじめて話した時のことを思い出す。あの頃の私とはもう、全然違うのだ。

糸永くんは笑っている。私も、恥ずかしいのをごまかすように笑った。その後、糸永くんは、寂しいとも嬉しいとも言えないような、あいまいな表情で話し出した。

 


「家から離れる前に、この街を見ておきたくて」

 


糸永くんも私も、それぞれ県外の大学への進学が決まっていた。今まで当たり前のようにこの街で暮らしていたけれど、こうして過ごせるのも、あと2週間程度だった。

 


「糸永くんは、この街が好き?」

 


私が質問すると、糸永くんはいつもみたいにはぐらかした。

 


「園田さんは?」

 


糸永くんは、こうしていつも、自分のことを教えてくれない。

 


「私は好きだよ。糸永くんとも会えたし」

「僕のこと口説いてるの?」

 


園田さんはおもしろいなって、糸永くんは笑う。こうして糸永くんと隣で話せるのもあと2週間だけなので、私はもうやけっぱちなのだ。

もう答える気はないのだろうと諦めていたら、糸永くんは急に真剣な顔になって語り出した。

 


「僕も、今は好きだって思うよ」

 


糸永くんは、遠いところを見つめながら、そう続ける。今は?前は?どういうところを?って、色々聞きたかったけど、私は全部飲みこんだ。

糸永くんは、はじめから今まで、ずっと遠くの、違う時間のところで生きているみたい。糸永くんの話を聞こうとしたことは何度もあるけど、そのたび糸永くんは、あんまり人の心をのぞいちゃだめだよっていうふうに、あいまいに笑った。友達になって、話しはじめたあの頃より、少しだけ近くに行けた気もするけど、やっぱり私は糸永くんのことを全然わからなくて、わかりたくて、でも何もできなくて、それがとても悲しかった。糸永くんは、そういうふうに私が何にも知らないでいるところを気に入ってるみたいなのも、悲しかった。

 


「僕のために泣いてるの?」

 


私はなんだか悲しくて、泣けてきてしまう。糸永くんは、泣いている私を見て、不思議そうにしている。

 


「夜景があんまり綺麗だから」

 


糸永くんは、泣いてる私をそっと抱きしめた。優しかった。このまま2人で消えてしまえたら、どれだけ幸せだろうと思った。でも、それを望んでいるのが私だけでしかないことがありありとわかっていたから、私は抱きしめ返さなかった。私の悲しいほど小さなプライドだった。

空に光った一番星に、心の中でお願いをした。いつか私じゃないだれか、糸永くんのことを幸せにしてください。